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第四回十字軍

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
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 次は第四回十字軍です。

第四回十字軍


コンスタンティノープルを攻撃する第4回十字軍
Source:Wikimedia Cmmons

 第4回十字軍(1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍です。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮・強姦の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られています。

 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなりました。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされますが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいます。


コンスタンチノープルへの武装十字軍の遠征
Source:Wikimedia Cmmons



背景

 1198年、主要な国王が参加しながらあまり成果のなかった第3回十字軍から10年たち、ローマ教皇インノケンティウス3世は、新たなる十字軍を呼びかけました。

 各国王はこれに参加しませんでしたが、シャンパーニュで開かれた馬上槍試合(トーナメント)における勧誘で、シャンパーニュ伯ティボー3世、ブロワ伯ルイ1世を中心とした有力なフランス貴族が参加を決め、その後、フランドル伯ボードゥアン9世等が加わり、70人以上の諸侯、騎士の参加を得ました。

 シャンパーニュ伯が指導者になり、具体的な遠征計画を立てるための代表者として6人の騎士が選ばれました(その一人が、詳細な記録を後世に残したジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンです)。彼らが決めた方針は、イスラム教徒の本拠地であるエジプト(アイユーブ朝)のカイロを海路から攻撃するというもので、その輸送をジェノヴァやピサにも呼びかけましたが、結局ヴェネツィアに依頼することに決まりました。

 ヴェネツィアは単に輸送を担当するだけでなく、元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロ自ら参加することになりました。

 1200年にティボーが病死したため、新たにモンフェラート侯ボニファーチョ1世を指導者に選出した。

 一方、シリアとパレスチナを支配していたアイユーブ朝は、エルサレムへの武装巡礼団が時々ベイルートなどの沿岸都市を襲うため、イタリア諸都市に対し西洋人の武装勢力を運ばせないようにする協定を行おうとしていました。1202年、アイユーブ朝の王でサラーフッディーンの弟アル=アーディルは、互いに貿易相手として重要な関係にあったヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロと協議し、以下の協定を交わしています。

 エジプトはアレクサンドリアやダミエッタなど貿易港へのヴェネツィア船舶の自由な入港と援助を保障する。

 見返りに、ヴェネツィアはエジプトに対するいかなる遠征も援助をしない。

 ヴェネツィアは、十字軍との契約もアイユーブ朝との協定も、同時に守るべく行動していました。

ヴェネツィア

 1201年に十字軍参加者はヴェネツィアに集結し始めましたが、予定した3万人の約1/3しか集まりませんでした。このため、参加者の有り金を全部集めてもヴェネツィアに支払う船賃が大幅に不足し、出航できませんでした。そこでヴェネツィア側との協議の結果、かつてのヴェネツィア領で当時はハンガリー王保護下にあったザラ市(現在はクロアチアの都市ザダル)を攻略することで、船賃の補填とすることにしました。

 カトリックであるザラの攻略には、十字軍内にも大きな抵抗がありましたが、結局ザラを攻撃し、数日でこれを降伏させました。知らせを聞いたインノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門にしましたが、弁明を受けて破門を解きました。

 ところが、ここに東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスが訪ねてきて、帝位獲得の助力を願い出ました。アレクシオスの父は皇帝イサキオス2世でしたが、弟(アレクシオス3世)により簒奪されており、正当な帝位を回復したいとのことで、見返りとして、20万マルクの支払い、東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示しました。モンフェラート侯とヴェネツィアはこれに賛成しました(予め知っていたと思われます)。他の十字軍士は躊躇し、一部の者は別行動をとりましたが、結局大部分の者はこれに同意しました。

コンスタンティノープル攻撃 第1回


ドラクロワ作「コンスタンティノポリスの陥落」
Source:Wikimedia Cmmons

 1203年6月にコンスタンティノープルに到着し、アレクシオスを帝位に就けるよう要求しましたが拒絶され、7月に攻撃を開始しました。コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市でしたが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけました。攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開きました。

 しかし、父イサキオス2世とともに共同皇帝として即位したアレクシオス4世は十字軍との約束を果たせませんでした。東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオスには、新税を課したり、強制したりする力がありませんでした。

 十字軍は約束を果たすよう要求し、また、東ローマ軍や市民との間にいざこざが起こり、次第に両者の仲は険悪になって行きました。1204年2月に先帝アレクシオス3世の婿であるムルヅフォロスがイサキオス2世とアレクシオス4世を共に殺してアレクシオス5世を称したことにより、両者は決裂し、十字軍は再びコンスタンティノープルを攻撃することになりました。

第2回・略奪と暴行

 1204年4月に攻撃を開始しましたが、今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続きました。しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、東ローマ側も防衛は苦しいものとなりました。12日になり十字軍側が城壁への侵入に成功し、これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったラスカリスも抵抗を断念し逃亡しました。

 東ローマ側は抵抗をやめましたが、都市に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。アギア・ソフィア大聖堂に立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦されました。

 総主教座には娼婦が座り込んで卑猥な歌をわめきちらしました。市街のみならず聖堂や修道院でも略奪が行われ、貴重な品々は持ち去られるか、持ち帰れないものは破壊されました(コンスタンティノープル競馬場などの歴史的建造物も略奪・破壊されています)。こうしたコンスタンティノープルに対するヴェネチアと十字軍の暴行は、彼らが東ローマ帝国の信仰を自分達と同じキリスト教のものであるとは考えていなかった事を示しています。

 コンスタンティノープル攻撃を東ローマから見た記録としては、コンスタンティノープルを命からがら脱出した政治家ニケタス・コニアテスの著書が詳しいと言えます。

ラテン帝国

 新たにラテン帝国(- 1261年)が作られ、皇帝にはフランドル伯ボードゥアン9世が選ばれました。領土はヴェネツィアやモンフェラート侯(テッサロニキ王国)等の主要参加諸侯で分割されました。教皇は、コンスタンティノープル攻撃に怒りましたが、攻略成功後は東西教会の統合を祝福しました。

 その後、十字軍にエジプトへの出立を促したが、彼らは獲得した領土に居座って、再び出立することはありませんでした。彼らの多くは、シリアやパレスチナより国土が豊かな東ローマの征服に満足しており、それ以上に現地の反乱やニカイア帝国、ブルガリア帝国の侵攻への対処に忙しく、外征どころではなかったと言えます。

 十字軍による東ローマ攻略を、史学者堀米庸三は「金時計を手にした複数の野蛮人のようなもの」と表現しています。すなわち、一人が黄金のケースを、一人がぜんまいを、一人が針を分けるようなもので、各部品が互いに連絡を欠いては機能しないのだといえます。十字軍領主下でばらばらの領邦に分割されたラテン帝国が、かつての東ローマ帝国に匹敵するような有力な政治的・経済的存在となることはなかったのです。

 一方、東ローマの皇族たちは帝国周辺の各地に亡命し、小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国などを立てました。

影響

 これ以降、十字軍はローマ教皇の制御から離れ、参加した王侯の利害に左右されることが一層強くなりました。

 西欧からはイスラムに対する防壁の役割を果たすと見られていた東ローマ帝国が、多大な人力、財力を奪われたため弱体化させられました。1261年にニカイア帝国がラテン帝国を滅ぼして東ローマ帝国を復興させましたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、結局往年の勢力を取り戻すことが出来ず、後にオスマン帝国のヨーロッパへの侵入を許すことになりました。

 東ローマにあった大量のイコンなど美術品、古代の遺物、聖遺物、多数の書物が持ち去られたり、破壊されたりしました。ただし、結果論ではありますが東ローマに残ったそれらの文化遺産や聖職品などの多くは、後にオスマン帝国による陥落の際略奪されたり、偶像崇拝を禁止する宗教上の理由により破壊されたため、却って貴重な品々が西欧に保存されるという効果もあったと言えます。

 東ローマ帝国の国民や正教会の人々はカトリック側の動きに対して深い不信感を抱くようになりました。その後に何度か試みられた性急な東西教会再統一の動きは、国民や聖職者の反対によってことごとく頓挫し、現在に至っています。

 カトリックには、このことの原因を、フィリオクェ問題などの教義の違いもさることながら、第4回十字軍などの政治的な原因に帰す論調があります。

 ヴェネツィアが東地中海の制海権を確立しました。東ローマ帝国を滅ぼした主因のヴェネツィアでしたが、巧みな外交でパレオロゴス王朝期や、それどころかオスマン帝国勃興後も長きにわたって制海権を確保し続けたのです。

 援軍が来ないと知ったアンティオキア公国、トリポリ伯領、アッコンなどシリア沿岸の十字軍国家はエルサレム攻略をあきらめ、アイユーブ朝と更なる休戦の延長に応じ、沿岸部での両者の共存が続きます。


モスクつづく