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秦始皇帝・兵馬俑・博物院概要(百度百科2)

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は秦始皇帝陵博物院の展示物を紹介する百度百科12です。

◆秦始皇帝陵博物院  百度百科2

  

●文官(官僚)俑坑

 文官俑坑はK0006陪葬坑を指し、これは、秦の始皇帝陵園において、2000年に一連の陪葬坑として発見されました。坑は、秦の始皇帝陵園内城の陵墓の西南角に位置しており、東西に向き、「中」の字形の地下の坑道は、すべて木造建設となっていました。総面積は410平方メートルであり、入り口は傾斜していて、前室と其の後ろの三つの部屋で構成されています。

 前室と後室は東西が転位しており、それぞれ異なる埋蔵物を納めた部屋が相対して独立して設置されていました。 前室の主要な埋蔵物は陶俑ですが、後室には馬の骨が埋蔵されていました。

 この坑は秦の始皇帝陵園の中でも数少ない火災に見舞われない陪葬坑でした。そのため、木質構造の遺跡は比較的整っており、清掃を行うと、木製の棚や板庇、床板、密封するために用いた木材などが発見されました。


文官(官僚)
出典:中国百度百科 秦始皇帝陵博物院

 K0006陪葬坑は長さ10.6メートル、幅4.05メートルで、南側の壁には長さ3.8メートルで幅2.9メートルの廂房(しょうぼう)がありました。前室からは、12体の陶俑が出土し、それらは、8体の袖手(しゅうしゅ:手を袖の中に入れている)俑と4体の御手俑(御者俑)の二つのグループに分けられます。

 出土時の陶俑はいずれも細かく砕かれていて、一号兵馬俑坑から出土した兵士の俑と比較しても明らかに弱々しいものでした。(陶俑は)上半身には膝丈の単衣あるいは袷の衿(交領)をもつ上着を右衽(うじん:左の衽(おくみ)を右の上に重ねる着方=右前)に着て、腰には革帯を着け、下は長ズボン、足には四角い履き口の浅い履き物を履いていました。

 陶俑の体はオリジナルは赤、緑、黒、白などの色彩が施されていましたが、地下水による浸食や坑内での倒壊により出土時に表面に残さされていた色彩はごく僅かでした。これらの12体の陶俑は頭に長い冠をかぶっていることから、一定の爵位を持っていたものと考えられます。

 注)廂房(しょうぼう) コトバンクより
  中国の伝統的な住宅の形式。院子と呼ばれる中庭をとり囲んで,北に正房または
  堂屋という主屋,東・西にそれぞれ廂房という脇部屋,南に倒座という向い部屋
  を配するのが基本型。北京,河北,山西一帯に分布する典型的なものは,中庭を
  垂花門によって南北二つに分け,それぞれを内院,外院と区別する。


 陶俑の破壊の過程と此処の陶俑の破壊のされ方に着目すると人為的な破壊であることが明らかで、こうした破壊は俑坑の建設直後に破壊されたことがわかりますが、棚木は地滑りにも拘わらず、破壊を免れました。また、前室からは、陶罐(銚子や甕、盆など)や銅製の斧なども出土しています。

 入り口が傾斜している前室西側からは、木製の車の残骸が発見され、この車には単轅、二輪で木製の座席がありました。

 K0006陪葬坑後室は長さ20.2メートル、幅3.9メートルで、馬の骨格等の遺物が出土しています。発掘された馬の骨の配列や密度から考えて、後室には20頭以上の馬が埋葬され、頭は南北の向きに並べられていたと考えられます。


百劇俑坑


出典:中国百度百科 秦始皇帝陵博物院

 K9901の陪葬坑は秦の始皇帝陵園の南東部の城内と外を隔てる垣の間に埋蔵されていました。総面積は約700平方メートルあり、試掘により青銅の鼎と11の陶俑が出土しました。これらの陶俑の上半身は裸で、下半身は彩色の短い丈のスカートを身につけ、一体一体その大きさやポーズは異なっていました。これらは、秦陵から出土した新しいタイプの陶俑でした。これらの陶俑の姿から、この坑は暫定的に「百劇俑坑」と呼ばれていました。

 1999年3月、陪葬坑は秦の始皇帝陵の内側と外側壁の間のエリアで発掘されました。坑は平面で凸の字形をしており、東と西の両端には傾斜のある入り口がありました。坑の長さは東西が40メートル、西側の幅16メートル、東側の幅は12.3メートル、内側には東西向きの筋がつけられ、その上は横木の梁で隔てられ、東西に交差した3つの洞がありました。

 西側の入口の長さは20.8メートル、幅7.6~11.4メートルです。坑の地表からの深さは約5メートルで、面積は約700㎡、地下坑道式で上部は木造建築となっていたことから、火災などで崩壊していました。

 青銅製の鼎と11個の俑坑は、この坑の試掘時に出土しました。坑の中には11体の陶俑があり、上半身は裸体でしたが、下には彩色の短いスカートをはいていました。その大きさとポーズはそれぞれ異なっており、秦の陵で発見された考古学的遺跡としては初めての発見でした。

 「中国普通語は晋語四種」、「漢書は廣川惠王伝」、「淮南子(えなんし)は第19巻修務訓」、「西京賦」、「抱朴子は弁問篇」等の文献から多様な「百演劇」的な記述を統合したことにより、これらの陶俑の姿は、宮廷に様々な百の演劇の姿をした陶俑を提供することが可能になったと考えられます。従って、この陪葬坑は暫定的に「百劇俑坑」と名付けられました。

 注)淮南子(えなんし) コトバンクより
  中国,前漢の高祖の孫で淮南王の劉安 (前 179?~前 122) が編集させた論集。
  21編。老荘思想 (→黄老 ) を中心に儒家,法家思想などを取り入れ,治乱興亡
  や古代中国人の宇宙観が具体的に記述されており,前漢初期の道家思想を知る際,
  不可欠の資料である。

 注)西京賦(さいきょうふ)Wikipediaより
  後漢時代の政治家、張衡が永元14年(102年)、南陽郡守であった飽徳の主簿
  となった。永初元年(107年)には、太平無事で王侯以下が奢侈を貪るのを痛み、
  班固の「両都賦」を真似て洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を
  著した(これらを総称して「二京賦(中国語版)」という)

 注)抱朴子(ほうぼくし) Wikipediaより
  晋の葛洪の著書。内篇20篇、外篇50篇が伝わる。とくに内篇は神仙術に関する諸
  説を集大成したもので、後世の道教に強い影響を及ぼした。内篇の弁問篇では聖
  人が仙人になれなかった理由を説明している。

 「百劇」とは古代の猿楽・軽業といったものの総称であり、表現内容も多岐にわたっていて、鼎を持ち上げていたり(重量挙げ)、軽業師、相撲取り、喜劇俳優などが含まれていました。発掘者が発掘した陶俑の姿勢から判断すると、これらの陶俑のパフォーマンスには、力持ち(扛鼎)、軽業(棒回し)、皿や樽回しなどの演技が含まれています。


●色彩秦俑展


出典:中国百度百科 秦始皇帝陵博物院
 
 数十年に及ぶ考古学的発掘と保護活動の後、ほとんど知られていない秦王朝時代の絵画が再現され、それらの神秘的な色彩は尽きることのない思いに繋がっていきます。「秦王朝の真の色彩展」では、兵馬俑発見から40年にわたる絵画の研究成果を一般の人々に公開し、その顔料の希有で、神秘的な色使や独特の装飾芸術を展示しています。

 これらは、秦時代の人々が芸術的に造詣が深く優れた美意識をもち文化的に豊かものを持っていたことを示しています。


出典:中国百度百科 秦始皇帝陵博物院

第一部:色彩の奥義
 1.古代の色彩、2.色彩の旅、3.秦俑の絵の具箱

第二部:装飾的インスピレーション
 1.千人千様の兵馬俑、2.多様な兵馬俑の美しい姿

第三部:葬礼芸術
 1.葬礼文化、2.俑の重要性、3.色彩に関する礼式

第四部:英知の継承
 1.色あせた色彩、2.再現された輝き


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