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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

メルヴ

Turkmenistan、トルクメニスタン)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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◆トルクメニスタンの世界遺産1




 メルブ( Merv/Marw, Mary)は、トルクメニスタンのカラクム砂漠の中にある中央アジア最大の遺跡です。トルクメニスタンではマル(またはマルイ、マリイ)と呼ばれています。1999年、トルクメニスタン初の世界遺産に登録されました。

 以下記はメルヴの位置を示す地図です。ウズベキスタンの南部、イランの北東です。


出典:グーグルマップ

 もとはホラーサーン地方の中心都市のひとつで、シルクロードのオアシス都市として栄えました。人口は100万人に達したといわれています。

 なお榎一雄は南北朝時代の梁の職貢図に記載された「未国」をメルブと比定する説を提出しています。なおメルブには仏教が伝播しており、また梁の武帝・蕭衍は、仏教信徒としても高名で「皇帝菩薩」と呼ばれていたため、仏教を通じた交流も考えられます。


スルタン・サンジャルの霊廟
Peretz Partensky - https://www.flickr.com/photos/ifl/3892634354/Uploaded by MrPanyGoff, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
Source: Wikimedia Commons


メルヴに残る「エルク・カラ」の遺構
Mark and Delwen - Originally uploaded to Flickr as Port of Turkmenbashi, CC 表示 2.0, リンクによる
Source: Wikimedia Commons

歴史

マルグ


 紀元前6世紀から、アケメネス朝ペルシャの支配下にある一オアシス都市として繁栄し始めます。当時は、「マルグ」(サトラップ)と呼ばれ、マケドニア王国期には「マルギアナ」と呼ばれました。「マルギアナ」の遺構は、円形の日干レンガ城壁で囲まれた「エルク・カラ」として知られています。「エルク・カラ」は、12ヘクタールに達する都市でした。

パルティア時代とギャウル・カラ

 その後、セレウコス朝時代をへて、前2世紀 - 後3世紀のパルティア時代に、「エルク・カラ」を北辺に組み込んだおおむね一辺1.8 ~ 9kmの方形に近いプランの「ギャウル・カラ」(「グヤウル・カラ」)が築かれました。面積は、約3.5km2で、城壁に囲まれ、十字に交差する道路で街区が造られていました。

 「ギャウル・カラ」の外側にも、楕円形に近い形に城壁がめぐっていて、内側の城壁から外側の城壁への距離は、北へは3km、東西、南方向へは、3.5kmであり、総面積は、60km2に及んでいましだ。ギャウル・カラは、サーサーン朝の滅亡する7世紀まで機能していました。

仏教の伝播

 メルブには、紀元後1世紀頃に仏教が入ってきたと考えられ、城壁の南東すみに、仏寺跡とみられる遺跡があります。他にも当時の仏塔や僧院が残されており、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文が発見されています。経文は、白樺樹皮にサンスクリット語で書かれていました。

イスラーム以降

 7世紀に西方のアラビア半島からイスラームが勃興し、サーサーン朝を滅ぼすと、第3代正統カリフ・ウスマーンの時代からアラブ軍によるホラーサーン遠征が本格化するようになりました。

 649年にバスラ総督に任命されたアブドゥッラー・イブン・アーミルは自らアラブ軍を率いてホラーサーン諸都市を征服し、ヘラートを征服しました。のちにメルヴの住民はイブン・アーミルに投降し、メルヴはアラブの支配下になりました。以降、この地は8世紀になるまでマー・ワラー・アンナフル、アフガニスタン遠征の拠点となります。

 この頃からメルヴはアラビア語でマルウ・アッシャーヒジャーン(Marw al-Shāhijān)と呼ばれるようになりました。

セルジューク朝時代

 セルジューク朝(1038年 - 1194年)時代になると、「ギャウル・カラ」の西に接して概ね楕円形の「スルタン・カラ」が築かれていました。

 このころ、メルブが最大の栄華を誇ったとされ、数万冊の蔵書があったという図書館が8つもあり、天文台も築かれました。『ルバイヤート』で知られる著名な詩人、数学者であったウマル・ハイヤームも、この時期のメルブの天文台主任として活躍しました。

 1097年、セルジューク朝の王子サンジャル(のちのスルタン・サンジャル(位1118 - 1157)がホラーサーン地方を支配するよう分邦されると、彼はメルヴに自らの宮廷を置きました。1118年にスルターンに即位するとメルヴは彼の元でホラーサーン地方を含むセルジューク朝の東部全域の首都となりました。

 かつては青タイルで装飾されていたサンジャルの廟もこの「スルタン・カラ」のほぼ中央に建てられました。スルタン・サンジャル霊廟は、外壁5m、基礎6mという堅牢なもので、後のモンゴル軍の破壊や地震にも奇跡的に耐え抜き、当時の建築技術の高さをうかがわせます。

メルブの終焉(モンゴルによる壊滅)

 12世紀末も、ホラズム・シャー朝支配下の重要な都市として繁栄を続けましたが、1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を一人残らず皆殺しにしたといいます。メルブの町は廃墟と化し、二度と復興しませんでした。

その他の遺跡

 大キズカラは、高さ20m近くあり、かつては2階建てで屋根もあったと考えられていますが、現在は1階部分は砂に埋もれ、壁は一部崩壊しています。小ギズカラとともに、「スルタン・カラ」の城壁の外、南西の地点に築かれています。

世界遺産登録

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用)。

(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。


ニサへつづく