| シルクロードの今を征く Now on the Silk Road マザーリシャリーフ2 ( Mazar-e Sharif、アフガニスタン) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月25日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(中央アジア) アフガニスタン カーブル ヘラート マザーリシャリーフ1 マザーリシャリーフ2 カンダハール バーミヤーン バーミヤーン遺跡1 バーミヤーン遺跡2 次はアフガニスタンのマザーリシャリーフ3です。 ◆マザーリシャリーフ2( Mazar-e Sharif,アフガニスタン) アフガン戦争 18世紀、カンダハールにドゥッラーニー朝が起こり、マザーリシャリーフはその版図に組み込まれました。その後、ドゥッラーニー朝は一族のバーラクザイ朝に滅ぼされました。 19世紀に入るとロシアの南下政策に対抗するために、イギリス軍がアフガニスタンへの進駐を要求し、三次にわたってアフガン戦争が勃発しました。 1839年に始まった第一次アフガン戦争ではワジル・アクバル・ハーン王子が活躍しました。1878年に始まった第二次アフガン戦争では、国王のシール・アリー・ハーンがカブールを追われてバルフで死去しました。王子や国王の墓はマザーリシャリーフのブルーモスクにあると言います。またこの時代、マザーリシャリーフとバルフの中間に位置するカライジャンギ(Qala-I-Jangi)に、西洋式の星形要塞が作られました。 アフガニスタン紛争 1979年にソビエト連邦がアフガニスタン侵攻を開始して首都カーブルを占拠すると、国境のアム川に近いマザーリシャリーフの地はソ連の影響下に入り、ソ連のコントロール下にある当時の政権政党アフガニスタン人民民主党に従う親ソ派ウズベク人民兵組織の拠点となりました。 このウズベク人民兵2万人の指導者に抜擢されたのが、ソ連で軍事訓練を受けた元技術者のアブドゥッラシード・ドスタム将軍です。マザーリシャリーフのドスタム派 (イスラム民族運動) は、ムジャーヒディーン諸勢力と戦ってムジャーヒディーンの敵意を買いましたが、ソ連崩壊後の1992年2月に人民民主党を捨ててムジャーヒディーン政権樹立に参加し、その後のアフガニスタン内戦ではウズベキスタンの間接的支援を受けてマザーリシャリーフを中心に北部に割拠を続けました。 国内の他地域が疲弊する中、ドスタム率いるイスラム民族運動の支配下でマザーリシャリフは平和を享受し、旧ソ連の中央アジア諸国やトルコとの政治的結びつきを固め、独自の紙幣が発行され、航空会社も運営されました。しかし、1997年にドスタムの属将であったアブドゥル・マリク将軍の離反によって、マザーリシャリーフは争乱状態となり、ターリバーンに付け入る隙を与えることになりました。 1997年5月から7月にかけて、ターリバーンはマザーリシャリフの攻略にかかりましたが、作戦は失敗し約2500人のターリバーンがマリク将軍派とシーア派のハザーラ系民兵によって虐殺されました。 ターリバーンは直ちに反攻し、1998年8月8日に市街に再入城、続く6日間にわたって、ハザーラ系住民に報復のため徹底的な虐殺を行ないました。国連の推定では5000人の死者が出たとされています。 マザーリシャリフは陥落し、これを契機にパキスタンはターリバーン政権の承認に積極的に乗り出しました。しかし、ターリバーンはマザーリシャリーフのイラン総領事館を占拠し、外交官10人とジャーナリストを殺害しました。このため、イランが国境地帯に軍を展開する事態となりました。 アメリカ主導の軍事行動 911の後、マザーリシャリーフはアメリカが後援する北部同盟がアフガニスタンで陥落させた最初の都市になりました。マザーリシャリーフのターリバーンの敗北により、アフガニスタン北部の他地域や西部への道が開けました。 2001年11月のマザーリシャリーフの戦いの後、表向きには北部同盟が街を占領していましたが(マザーリシャリーフ奪還、11月9日 - 11月10日)、実際にはアメリカ軍の特殊部隊が合流し、アメリカ空軍が支援しました。 報道によると、北部同盟は投降したターリバーンの兵士3000人をカライジャンギで皆殺しにした(12月、ダシュテ・ライリ虐殺)と言います。アメリカの地上部隊も虐殺の現場に居合わせたようです。 アイルランドのドキュメンタリー映画「アフガン大虐殺 - 死の護送」がこれらの申し立てを調査しました。プロデューサーのドーランは国連の調査官達が数千人の被害者の集団墓地を見つけたと主張しています。報道によると、ブッシュ政権はこの事件の調査を妨害したと言います。 2002年を通じて、指揮官が異なる民兵同士の小規模な衝突が続いたので、国際連合の集中的な和平調停と小規模な武装解除プログラムに焦点が移りました。 2003年4月、街にアフガニスタン独立人権委員会の事務所が開設されました。しかし北部のパシュトゥーン人の市民が、タジク人を中心とする他の民族グループに民族浄化されたと報道もありました。 NATO軍駐留とカルザイ政権 2002年にハーミド・カルザイ大統領が選出された後、街は徐々にカルザイ政権の支配下に置かれました。アフガン陸軍第209軍団(シャヒーン)の基地はマザーリシャリーフにあり、アフガニスタン北部において軍事的な支援をしています。 北部地域のアフガン国境警備隊の司令部もこの街に置かれています。これらの治安部隊が居るにも関わらず、ターリバーンの活動や部族長老の暗殺が報告されています。マザーリシャリーフの当局者によると、過去7年間でバルフ州の部族長老が20~30人暗殺されていると言います。 背後に誰がいるのか確実な証拠はありませんが、犠牲者の大部分はグルブッディーン・ヘクマティヤールのイスラム党に関係していると言われています。 アフガン政府を支援するために、NATO主導の平和維持軍が街の中や周辺に展開しています。ドイツが率いる国際治安支援部隊(ISAF)の北部方面軍は、マザーリシャリーフ国際空港に隣接するマーマル駐屯地にいます。 2006年以来、マザーリシャリーフの地方復興チームの指揮官はスウェーデンから派遣されています。部隊はマーマル駐屯地の西10キロメートルにあるノーザンライト駐屯地にいます。マーマル駐屯地の中にはニダロス駐屯地があり、ラトビアやノルウェーの兵士と、ノルウェイのISAF指揮官がいます。 2011年4月1日、国連アフガニスタン支援ミッションの10人の職員が、怒り狂ったデモ隊によって殺害されました。デモはテリー・ジョーンズ牧師とウェイン・サップ牧師が3月21日にフロリダ州で催した国際クルアーン焼却日に対して組織された物でした。 5人のネパール人と、ノルウェー人、ルーマニア人、スウェーデン人が殺害され、2人は斬首されたといいます。イスラム教の聖書を燃やしたアメリカ人牧師のテリー・ジョーンズは責任を否定しました。 バラク・オバマ大統領は、コーラン焼却を「極度の不寛容と偏見」的な行為として非難すると共に、デモ隊の「無法な攻撃」を「人類の品位と尊厳を侮辱した」「罪の無い人々を虐殺し首を切ることを許す宗教は無いし、不名誉で嘆かわしい行動に正義は無い」と非難しました。上院院内総務のハリー・リードなどの合衆国の議員たちも、焼却と暴動を非難しました。 暴動は2011年7月までに最高潮に達しました。7月下旬、爆弾攻撃により死者が出た数日後、治安に対する不安が増大する中で、NATO軍はマザーリシャリーフの管理を地元の軍隊に譲りました。マザーリシャリーフの7分の6の地域はアフガンの支配下に移りましたが、移行時期が政治的でターリバーン兵士と戦うアフガン軍の能力も疑問だという批判がありました。 2013年6月、国際治安支援部隊は治安維持任務を完了しました。北部地方に展開するドイツ軍も撤退作業を進めており、2014年末までにマザーリシャリーフから撤退する予定です。 交通 アフガニスタンの中央部は東西にヒンドゥークシュ山脈が走っており、大都市は山脈の周辺に点在しています。首都カーブルは山脈の南側にあり、マザーリシャリーフは北側にあります。そのため両都市間の交通は、標高3363mのサラン峠を越えなければ成りません。マザーリシャリーフはウズベキスタンの国境に近く、ウズベキスタンと首都カブールをつなぐ交通の要衝でもあります。 アフガニスタンの幹線道路はアジアハイウェイの一部と看做されており、マザーリシャリーフには76号線が走っています。幹線道路を西に向かえばアフガニスタン西部の都市ヘラートがあり、東に向かえば山脈を越えて首都カーブルがあります。北に向かえば国境の町ハイーラターンがあり、アムダリヤ川を越えてウズベキスタンに至ります。また「Hairatan Rd」と平行してウズベキスタンに向かう62号線も工事中です。 2011年12月、マザーリシャリーフとハイーラターンの間の鉄道が完成し、街はウズベキスタンと鉄道で繋がりました。これはアジア開発銀行が出資して建設したもので、ウズベキスタンの国営鉄道が運営しています。鉄道はウズベキスタンからアフガニスタン=ウズベキスタン友好橋を越えて、マザーリシャリーフ国際空港の近くまで伸びており、ここでトラックや飛行機に積みかえることが出来ます。 産業 主な産業は農業と牧畜ですが、小規模の石油と天然ガスの生産もマザーリシャリーフの復興を勢いづけています。古くからブズカシの中心都市であり、市内のモスクはノウルーズ(新年祭)には国内でも有数の賑わいを見せます。 フンザ1へつづく |