シルクロードの今を征く Now on the Silk Road パドヴァ( Padova、イタリア) スクロヴェーニ礼拝堂2 Cappella degli Scrovegni 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2020年10月10日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
<ヴェネツィア総合メニュー> <礼拝堂1> スクロヴェーニ礼拝堂1 スクロヴェーニ礼拝堂2 スクロヴェーニ礼拝堂3 スクロヴェーニ礼拝堂4 スクロヴェーニ礼拝堂5 スクロヴェーニ礼拝堂6 スクロヴェーニ礼拝堂7 スクロヴェーニ礼拝堂8 スクロヴェーニ礼拝堂9 スクロヴェーニ礼拝堂10 スクロヴェーニ礼拝堂11 スクロヴェーニ礼拝堂12 スクロヴェーニ礼拝堂13 スクロヴェーニ礼拝堂14 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆スクロヴェーニ礼拝堂2 Source:Wikipedia スクロヴェーニ礼拝堂におけるジョットの装飾絵画 イタリア人の画家であり、建築家のジョット(Giotto di Bondone)は、1305年ごろに後世に最も大きな影響を与えました。そのジョットはパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の内部装飾絵画を手掛けました。 注)ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone、1267年頃-1337年1月8日) ジョットは中世後期のイタリア人画家、建築家。日本でも諸外国でも単にジョット (ジオット)と呼ばれることが多い。フィレンツェ共和国(現在のイタリア・トスカーナ 州近辺)の首都フィレンツェ近郊の出身といわれており、その絵画様式は後期ゴ シックに分類され、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なさ れている。 ジョット・ディ・ボンドーネ Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる この礼拝堂は、エンリコ・デッリ・スクロヴェーニが近くにあった自身の教区教会とは別に、一族の礼拝所兼墓所として建てたものでした。 この礼拝堂の建築は隣のエレミターニ教会の聖職者たちに驚きをもって受け取られました。スクロヴェーニ礼拝堂はエンリコが家族のために修復した古い邸宅の隣に建てられ、外観はピンクのレンガに覆われたシンプルなものでした。この古い邸宅は現存しておらず、礼拝堂が古代ローマの競技場(アレーナ (arena))の遺跡敷地内に立っているため、現在では「アレーナ礼拝堂」と呼ばれることが多くなっています。 礼拝堂のテーマは救済で聖母マリアが重要視されており、受胎告知と聖母の慈悲に捧げられています。 中世イタリアの典型的な屋内装飾としてもよく知られ、西側の壁には最後の審判が、東側の内陣には大天使ガブリエルと聖母マリアとの受胎告知が描かれています。 受胎告知は『聖処女マリアの生涯』と『キリストの生涯』を描いた一連の絵画の一部となっています。マリアの生涯はジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが書いた殉教者列伝『黄金伝説』を、キリストの生涯は当時ボナヴェントゥラが書いたといわれていた追随者たち (en:Pseudo-Bonaventura) の著作をもとにして描かれています。 しかし一連のフレスコ画はこれらもとになった書物を単に絵画として表しただけではなく、学者たちはこれらの絵画から聖書に対するジョット独自の解釈を多数見出しています。 一連のフレスコ画は37の場面から構成されており、側面の壁に上中下三段に分かれて描かれています。 最上段には聖母マリアの両親ヨアキムとアンナが描かれ、聖母マリアの生涯を表現した最初の絵画になっています。下の二段にはキリストの生涯が描かれ、『最後の審判』は正面反対側の壁全面に描かれています。 『カナの婚礼』, スクロヴェーニ礼拝堂 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる チマブーエの作風がビザンティン様式とゴシック様式を併せ持った明確な中世様式であるのに対し、ジョットの作風は彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオの作品のような、立体的で古典的なものでした。チマブーエやドゥッチョの作風とは異なり、ジョットが描く人物像は類型化されたものでも過度に細長く誇張されたものでもなく、それまでのビザンティン様式の影響は見られません。 緻密な観察に基づいた三次元的な表情とポーズで描かれ、衣服もそれまでのように規則的に波打ってはおらず自然な形と重さが表現されています。このような新しい絵画表現は、当時ローマで活動していたピエトロ・カヴァリーニによって既に始められていましたが、ジョットはこれらの表現をさらに昇華させたため、具象画の新しいスタイルを生み出したという名声はジョットのものとなりました。 彫刻のような三次元的陰影で描かれた人物像は自然に配置され、使用されている遠近法とあいまって舞台のセットのような印象を与えています。ジョットによる慎重な人物像の配置は、これらの絵を観る者に、あたかも自分が絵画に描かれている場所に実在しているかのような効果を及ぼします。 この劇的な臨場感は新しく絵画にもたらされた特質で、サン・フランチェスコ大聖堂のフレスコ画においてもその萌芽を見ることができます。 一連の絵画のなかで有名な場面が描かれているものに『東方三博士の礼拝』があり、彗星のようなベツレヘムの星が夜空を横切っている様子が描かれています。この彗星はジョットが実際に見た1301年のハレー彗星をもとに描いたといわれており、1986年にハレー彗星の観測用に打ち上げられた探査機ジョットはこの絵画にちなんで命名されました。 他に有名なものは『キリストへの哀悼』で、この神聖なテーマを描いた絵画では、作品を観るものに哀切の感情を惹起させるために、ジョットはあえて従来のビザンティン風図像学を採用しています。 パドヴァでのその他のジョットの作品 ウフィツィ美術館ファサードのジョットの肖像 Source:Wikimedia Commons Giovanni Dupré, CC 表示-継承 3.0, リンクによる 現存していませんが、パドヴァで描かれたその他の作品が収蔵されていた場所としてサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂、パラッツォ・デッラ・ラジョーネがあり、スクロヴェーニ礼拝堂装飾絵画を手がけた時期ではなく後年になってからのパドヴァ滞在中に描かれたものです。 パドヴァでのジョットの作品は、グアリエント (en:Guariento)、ジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi)、ヤコポ・ダヴァンツィ (en:Jacopo d'Avanzi)、アルティキエーロら、イタリア北部出身の芸術家たちに大きな影響を与えています。 フィレンツェでのジョット ジョットは1337年1月に死去しました。ヴァザーリの著書では、ジョットはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂入り口左に埋葬され、白大理石の墓碑が置かれたとなっています。しかしながら他の記録もあり、それによるとフィレンツェのサンタ・レパラタ聖堂 (en:Santa Reparata, Florence) の教会に葬られたとされています。 この異なる二つの説は、サンタ・レパラタ聖堂がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が建築開始されるまでフィレンツェの聖堂であり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の着工後は大聖堂地下に移築されるものの、大聖堂建築中の14世紀前半には依然として教会として機能していたという事実で矛盾なく説明できます。 下の写真はフィレンツェでジョットが設計したとされる鐘楼です。 ジョットの鐘楼、フィレンツェ Source: Wikimedia Commons CC 表示-継承 2.5, リンクによる スクロヴェーニ礼拝堂3につづく <ヴェネツィア総合メニュー> |