シルクロードの今を征く Now on the Silk Road パドヴァ( イタリア) サンタ・ジュスティーナ教会(パドヴァ) (Abbey of Santa Giustina in Padua) 聖ベネディクト礼拝堂 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2019年4月20日、改訂公表予定2024年7月21日 独立系メディア E-wave Tokyo |
<ヴェネツィア総合メニュー> <礼拝堂1> 位置と外観 概要 内装 聖ジャコモ礼拝堂 聖グレゴリオ・マグノ礼拝堂 聖ダニエレ・レヴィタ礼拝堂 聖パルシド礼拝堂 聖マウロ/マウルス礼拝堂 殉教者ジュリアーノ礼拝堂 聖フェリシタ礼拝堂 聖ルカ礼拝堂 ビート・アルナルド・ダ・リメナ礼拝堂 聖歌隊席(クワイヤー席) 主祭壇 ピエタの礼拝堂 聖マキシム礼拝堂 聖マティアス礼拝堂 殉教者の廊下 プロズドチモの聖なる場所 聖ウーリオ礼拝堂 無辜の幼児殉教者のための礼拝堂 聖ベネディクト礼拝堂 聖スコラスティカ礼拝堂 聖ジェラルド・サグレド礼拝堂 聖ゲトルデの礼拝堂 聖パウロの回心の礼拝堂 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 ◆聖ベネディクト礼拝堂(Chapel of Saint Benedict) 祭壇は、ジェノヴァの黒と白の大理石を用いて造られています。祭壇のテーブルには、若い方のパルマ(Palma the Younger)により、聖ベネディクトが聖プラシドと聖マウロを迎える様子が描かれています。 Chapel of Saint Benedict 聖ベネディクト礼拝堂 Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0, Link St. Benedict welcomes his disciples, Maurus and Placidus 弟子の聖マウロとプラシドを迎える聖ベネディクト Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link <参考> ベネディクト ベネディクト Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる ヌルシアのベネディクトゥス(Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年[1])は、中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、ベネディクトスの著した会則は西ヨーロッパに広く普及し、やがて「西欧修道士の父」と称されるようになりました。 カトリック教会・聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人です。ベネディクトやベンディクトとも表記され、イタリア語ではベネデット(Benedetto)と呼ばれます。正教会ではノルシヤの克肖者聖ベネディクトと称されます。 カトリック教会においては、教会の聖堂名や保護聖人名、個人の霊名、その他において「聖ベネディクト」と記載・表記した場合、このヌルシアのベネディクトゥスを表すことが多いと言えます。 529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノ(イタリア共和国ラツィオ州)に修道院を設け、540年ころ修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行っいました。彼の戒律に従った修道会の一つをベネディクト会と呼びます。 生涯 ベネディクトゥスは、480年頃、スポレートに近い小さな町ヌルシア(現在のウンブリア州ノルチャ)の古代ローマ貴族の家系に生まれました。 伝承によれば、双子の妹にスコラスティカ(聖スコラスティカ)がいました。少年時代は両親とともにローマに住み、学問を習得しました。ローマでは、東ゴート王国の大王テオドリックが奨励する古典教育を学びました。これは行政官として必要な教養を身につけるためでしたが、キリスト教の福音の教えに共鳴したベネディクトゥスは神に自らの生涯を捧げることを決意し、早い時期に学校を退学しました。 ベネディクトゥスは隠修修道を行ったわけではありませんでしたが、ローマ郊外の都会の喧騒を離れた場所で新たな生活を始めました。しばらく後、ベネディクトゥスはローマを完全に離れる必要を感じ、田舎で自らの労働によって生活しつつ修道生活を営むことを考えるに至りました。ベネディクト会の標語 “ora et labora” 「祈り、かつ働け」 は、この精神を表現したものです。 修道士ロマヌスの勧めで数年間洞窟での隠修生活をした後、ベネディクトゥスは山中の町スビヤコ(ラツィオ州)に修道院を設立しました。彼のもとに、彼の評判を聞いて次々と共鳴者が集まり、スビヤコには12の修道院が増設されるに至りました。 しかし、同時に反感をもつ者も増えて往きました]。12の修道院のそれぞれに、ベネディクトゥスは12人の修道士と1人の監督者を住まわせ、自身は別の修道院にごくわずかな弟子たちとともに住みました。とはいえ、ベネディクトゥスは依然としてスビヤコ全体の修道院長であり、修道士たちの信仰生活の父親役を務めたのです。 ベネディクトゥスは、彼のことをこころよく思わない修道士によってあやうく毒殺されそうになり、スビヤコの町をいったん離れました。ローマ在住の貴族たちは、彼の修道院に子弟をあずけるようになり、そのなかから聖マウリスや聖ブラキドゥスなども現れました。 ベネディクトゥスに弟子が増えると、地元の聖職者たちからの敵意はいっそう募り、彼は南へ約100キロメートル離れた町への移動を余儀なくされ、529年頃、モンテ・カッシーノに移り、修道院を設立、モンテ・カッシーノ修道院設立の後は、ベネディクトゥスの生涯はその理想とする修道生活の実現のために捧げられました。 540年頃、ベネディクトゥスは会則を定めた。厳格派と穏健派の中道をつらぬき、労働と精神活動について定めたこの会則は、西ヨーロッパにおけるほぼすべての修道会へ広がっていき、以後、長い間、中世ヨーロッパの修道制度の基礎として考えられてきました。 ベネディクトゥスは547年頃にモンテ・カッシーノで死去し、妹の聖スコラスティカとともに埋葬されました。 聖ベネディクトゥスと毒杯(オーストリア、メルク修道院) Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる 聖ベネディクトゥスのメダル(en)の表裏 Source:Wikimedia Commons CC0, リンクによる Georges Jansoone - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる ヘルマン・ニーグによる肖像画(1926年)(オーストリア、ヘリゲンクラウツ修道院) Door Georges Jansoone - Eigen werk, Publiek domein, Koppeling Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link 聖スコラスティカ礼拝堂につづく |