| シルクロードの今を征く Now on the Silk Road アフガニスタン1 ( Kabul、アフガニスタン) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月25日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(中央・西アジア) アフガニスタン アフガニスタン1 アフガニスタン2 アフガニスタン3 アフガニスタン4 アフガニスタン5 アフガニスタン6 次はアフガニスタン1です。 ◆アフガニスタン ![]() ![]() アフガニスタン・イスラム共和国、通称アフガニスタンは、南アジアに位置する共和制国家です。首都はカーブルです。 内陸国であり、南および東にパキスタン、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンが位置し、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国の新疆ウイグル自治区に接しています。 パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家でもあります。 国名の変遷 1834年 - 1926年 アフガニスタン首長国 1926年 - 1973年 アフガニスタン王国 1973年 - 1978年 アフガニスタン共和国 1978年 - 1987年 アフガニスタン民主共和国 1987年 - 1992年 アフガニスタン共和国 1992年 - 1996年 アフガニスタン・イスラム国 ターリバーン政権期 1996年 - 2001年 アフガニスタン・イスラム国(北部同盟政権。国際連合代表権保持政府) 1996年 - 2001年 アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権) ボン合意以降 2001年 - 2002年 アフガニスタン(公式国名なし) 2002年 - 2004年 アフガニスタン・イスラム移行国 2004年 - アフガニスタン・イスラム共和国 国旗 現在の国旗は2002年1月に制定されたものです。中央の紋章に書かれている文字はコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれています。 歴史 先史時代 紀元前10万年、旧石器の文化がありました。紀元前7000年、新石器の文化がありました。 紀元前3000年から紀元前2000年にかけて四大文明が起こり、都市文化が生まれつつありました。その背景には農耕文化の発展がありました。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流がありました。 紀元前2000年から紀元前1800年は青銅器時代で、ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっています。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっています。 紀元前12世紀、リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻しました。 ペルシア・ギリシア・インド文化の時代 ペルシアとアレクサンドロス大王の支配 ![]() 紀元前5世紀ごろ、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでた Source:Wikimedia Commons 紀元前6世紀、イラン人が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハール、ラシュカルガー、クエッタ)、バクトリア(バルフ)、サッタギディア(ガズニー)、ガンダーラ(カーブル、ジャラーラーバード、ペシャーワル)の地方名で呼ばれていました。 カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町がすでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになっています。 紀元前5世紀ごろ、アラコシアには古代民族Pactyansが住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られています。 紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設しました。 南方のマウリア朝と北方のグレコ・バクトリア王国 ![]() カンダハールで発見されたギリシャ語とアラム語で書かれたアショーカ王碑文(紀元前3世紀) Source: Wikimedia Commons 紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配しました。 紀元前130年ごろ、メナンドロス1世が死んでインド・グリーク朝が分裂すると、サカ族がガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興しました。 紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びました。 1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄えます。このころギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになります。4世紀ごろまでバクト商人がシルクロード交易を掌握します。 3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及びます。 5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配します。 6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受けます。 イスラーム化の進展 ![]() ゴール朝の時代に建てられたヘラートの金曜モスク Source: Wikimedia Commons 8世紀初頭、イスラム帝国・アッバース朝のイスラム教徒軍がハザール・ソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争、トランスオクシアナ征服)、その支配下へ入ります。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わったあとも10世紀ごろまで残存しました。 9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治します。 995年、マームーン朝のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャトに栄えていた土着のゾロアスター教国家、アフリーグ朝は滅亡しました。 1017年、ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始めています。 1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開きました。1215年にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡しました。 モンゴル帝国 モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国、クルト朝の支配を受けます。 ティムール朝 1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受けます。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行します。1507年、ウズベク族のシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡します。 サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争 ![]() カンダハールを奪還するムガル帝国(1638年) Source: Wikimedia Commons 1510年、サファヴィー朝イランによって征服されます。1526年、第一次パーニーパットの戦い。カーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルがインドにムガル朝を建設します。 1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠します。1556年、第二次パーニーパットの戦いでスール朝のヘームーを破ります。 1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還します。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠します。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還しました。 アフガンの王家による統治のはじまり ![]() アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図 Source:Wikimedia Commons ホータキー朝 1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホータキーが反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立します。 1719年、ミール・マフムードがサファヴィー朝のケルマーンに侵攻します。 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い)。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治めます。 1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わります。 1729年、アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱しました(ダムガンの戦い)。 1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅します。 ドゥッラーニー朝 サドーザイ朝 アフマド・シャー時代のドゥッラーニー朝の版図 1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族の族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立します。 1757年、マラーターのインド北西部侵攻でパンジャーブが占領されます。 アフガニスタン2へつづく |