| シルクロードの今を征く Now on the Silk Road アフガニスタン3 ( Kabul、アフガニスタン) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月25日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(中央・西アジア) アフガニスタン アフガニスタン1 アフガニスタン2 アフガニスタン3 アフガニスタン4 アフガニスタン5 アフガニスタン6 次はアフガニスタン3です。 ◆アフガニスタン3 テロとの戦い 有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで ![]() アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日) Source:Wikimedia Commons ![]() アフガニスタンに向けて発射されるミサイル 2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOがアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言します。10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始します。 これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始されます。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還しました。年末にターリバーン政権が崩壊します。 11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖しました。 11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催しました。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加しました。 11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意しました。 12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執がありましたが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現しました(ボン合意)。 アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意します。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設し、カーブルの治安維持にあたります。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタートします。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となります。 暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで ![]() 移動する有志連合の部隊(ルーマニア軍、2003年) Source:Wikimedia Commons 2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行されました。約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となりました。 カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表しました。 暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポストを占めました。 2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催されました。約60各国と22の国際機関の代表が出席しました。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれました。 日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定しました。 また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表しました。各国の支援総額は30億ドルを超えました。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定しました。 2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺されます。6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され、1,500人以上の代表が参加しました。 6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選しました。 6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定します。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任します。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガ閉会します。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷します。 アフガニスタン・イスラム共和国成立以降 カルザイ大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王 ![]() カルザイ大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王 Source:Wikimedi Commons 2004年1月、新憲法が発布されました。10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任しました。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発しました。 2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了しました。12月、国会が開会しました。 2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加しました。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開しました。 2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加しました。 2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われました。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きました。 2009年8月、第二回の大統領選挙が実施されました。カルザイが過半数の票を得ますが、国連の調査で不正が発見されます。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定しました。 一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増しました。 同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行いました(1万7000人、4000人、1万3000人)。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣されました。 第二回大統領選挙後 2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定しました。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達しました。 国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任されました。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まりました。 9月18日、第二回の下院議会選挙が実施されました。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させました。2010年の経済成長率は22.5%に達しました。 2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害ました(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達しましたが、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表しました。 2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束しました。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していました。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位でした。 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大しました。 2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日にアシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任しました。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代でした。大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足しました。 12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了しました。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留しますが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになりました。 フンザ1へつづく |