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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road

アフガニスタン2

Kabul、アフガニスタン)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月25日 更新:2019年4月~6月
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アフガニスタン
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 次はアフガニスタンです。

◆アフガニスタン

バーラクザイ朝

 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国とします。

 1838年 - 1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利します。

イギリス保護国期


左からJenkyns、Cavagnari、ヤアクーブ・ハーン、Daoud Shah、
Habibullah Moustafi(ガンダマク条約、1879年)
Source:Wikimedia Commons

 第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦いでアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約でその保護国となり、イギリスとロシアはアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙しました。

 1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争が起きまする。イギリスは巨文島で巨文島事件を起こし、ロシアを牽制しました。

 1893年、デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、チトラルに遠征します。

アフガンの王家による再独立

 1919年に第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位しました。

 1926年、国名をアフガニスタン王国とします。同年、オーレル・スタインがインダス川上流およびスワート川流域(デュアランド・ライン)を調査旅行しました。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルクの世俗主義、民族主義、共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進しましたが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次ぎましだ。

 王妃ソラヤ・タルズィーは近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図りましたが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対がありました。

 タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニーは、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒しました(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦)。

 1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任します。

 1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めました。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺されました。同日、息子のザーヒル・シャーが即位しました。

 1939年に開戦した第二次世界大戦では、日本やドイツなどからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連からなる連合国の、どちらにもつかない中立国として機能していました。

冷戦

パシュトゥーニスタン独立運動


ザーヒル・シャー(1963年)
Source:Wikimedia Commons

 1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタンは「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合として独立させました。

 しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合されました。その後もしばらく内政自治は続いていましたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされました。

 パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制しました。

 ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進しましたが、1973年にイタリアで病気療養中にクーデターを起こされてそのまま亡命しました。

王政廃止からソ連軍の撤退まで


首都カーブルに展開するソ連の空挺兵
Source:Wikimedia Commons


チャールズ・ウィルソンとムジャーヒディーン
Source:Wikimedia Commons

 1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こして国王を追放し、共和制を宣言して大統領に就任します。

 新しい国名はアフガニスタン共和国。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧します。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)を結成し、ラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成しました。

 1978年4月、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑されます。

 人民民主党による社会主義政権が樹立し、国名をアフガニスタン民主共和国に変更します。初代革命評議会議長兼大統領兼首相はヌール・ムハンマド・タラキーです。

 これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する中、1979年2月にイラン革命が勃発します。9月17日、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハフィーズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に就任します。11月にイランアメリカ大使館人質事件が起きました。

 1979年12月24日、ソ連はアフガニスタンへ軍事侵攻を開始しました。ブレジネフソビエト連邦共産党書記長はソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れての侵略であるといわれていまする。12月27日、ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立します。ソ連軍および政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化します。

 1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択されます。

 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻します。

 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結します。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定されます。

 1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)します。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げます。戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生しました。

ターリバーンとの戦い

ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで


カーブルでインタビューを受けるビン・ラーディン(1997年)
Source:Wikimedia Commons


1996年時点のアフガニスタン、赤と緑の北部同盟、黄色がターリバーンの支配地域
Source:Wikimeia Commons

 1989年、ソ連軍が撤退したあと国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まります。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北します。

 1992年、ナジーブッラー政権崩壊します。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立します。

 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任します。

 1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大します。

 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言します。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[7](マスード派とドスタム派)となります。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近します。

 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北します。

 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握しますが、イラン領事館員殺害事件が発生します。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招きましたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避されました。また、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化します。

 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択されます。

 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択されます。

 2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤーンの石仏を爆破します。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡しました。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬されました。

 ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示します。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定します。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃されます。


フンザ1つづく