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  厳寒のロシア2大都市短訪

エカテリーナ宮殿

リヨンの応接間(1)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

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 ・エカテリーナ宮殿施設・内装
  
主階段       チャペル       大ホール1     大ホール2
  緑の柱の間    中国青壁の間   アレクサンダー一世の間 
  瑠璃色の間    緑色ダイニング   リヨンの応接間1   リヨンの応接間2
  アラベスクの広間  給仕人の間   パントリー       ダイニング 
  各部屋の暖炉


◆サンクトペテルブルグ市

 


エカテリーナ宮殿 リヨンの応接間(1)
  Lyon drawing room of the Catherine Palace
  http://eng.tzar.ru/museums/palaces/c_atherine/lyons_hall

 以下はエカテリーナ宮殿のリヨンの応接間の写真です。


ツァルスコエ・セロー、エカテリーナ宮殿。1917年、リヨンの応接間にて。カラー写真化は、アンドレ・アンドレイェヴィッチ・ゼーストが1917年6月~8月に作成した物です。ツァルスコエ・セローの内装の写真は、G.K.ルコムスキー(暫定政府が設置した委員会で、ツァルスコエ・セロー宮殿の資産管理登録及び受入委員会の座長)に替わって行われたものです。
Source:Wikimedia Commons
Андрей Андреевич Зеест - http://www.tsarselo.ru/content/0/read4880.html#.VGPR_mckQTB, パブリック・ドメイン, リンクによる


エカテリーヌ宮殿のリヨンの広間は、これから内装の改装を行う予定となっています。現在、このリヨンの広間は、訪れるお客様を、戦前から生き残った家具と1878年にツァルスコエ・セロの大宮殿において、「リヨンの広間」(黄色の客間)と題してルイージ・プレマッツィが描いた水彩画の写しが歓迎してくれます。この絵はまさに19世紀半ばの輝きを表している作品です。

 内装は二人の建築家が手がけました-チャールス・キャメロンと後のイッポリト・モニゲッティの二人です。ラピスラズリと、リヨンから取り寄せた豪華な絹織物の壁(部屋の名前の由来)があり、部屋は、1781年~83年にキャメロンが古典様式を取り入れて完成させました。

 その後、キャメロンの仕事を非常に繊細に扱ったモニゲッティにより1848年から61年にかけて修復され、この部屋の視覚的なインパクトを強調しつつ新しい家具を加えていきました:両側に白い大理石のキューピッドを配置した暖炉の上の鏡と壁に取り付けたラピスラズリの突き出し燭台などです。

 室内には、テーブル、植物を入れる花壇、装飾のある植木鉢、カーテン、花瓶などの台座、そして机などが沢山置かれていました。

 モニゲッティはラピスラズリや青銅のメッキを施した84本の蝋燭が建てられる豪華なシャンデリアをデザインし、現在は失われてしますが、傑出した天井装飾として美しく完成しました。

 建築家がリヨンの間のハイライトとしているおは、青銅メッキとラピスラズリで造られた家具のセットで、アレクサンダー2世の妻である女帝マリア・アレクサンドロヴナのモノグラムとしてユニークな特徴を備えています。

 イニシャルは、1856年にピーターホフ・ラピダリー工房(Peterhof LapidaryWorks)から特別に依頼してつくらせたこれらの作品の所有者の印で、女帝の好きな宮殿の内部を飾るためのものです。 金色の斑点がちりばめられた豊かな深い色のアフガニスタンのラピスラズリは、金めっきされたブロンズの周りに見事に浮かび上がっています。



ツァルスコエ・セロー、エカテリーナ宮殿。1917年、リヨンの応接間にて。カラー写真化は、アンドレ・アンドレイェヴィッチ・ゼーストが1917年6月~8月に作成した物です。ツァルスコエ・セローの内装の写真は、G.K.ルコムスキー(暫定政府が設置した委員会で、ツァルスコエ・セロー宮殿の資産管理登録及び受入委員会の座長)に替わって行われたものです。
Source:Wikimedia Commons
By Андрей Андреевич Зеест - http://visualhistory.livejournal.com/200025.html, Public Domain, Link



ツァルスコエ・セロー、エカテリーナ宮殿の内部と家具の展示。リヨンの応接間からの品々。暖炉のスクリーン(リヨンの絹、ラピスラズリ、金箔を貼ったブロンズ)。設計は、I.A.モニゲッティ。ロシア、ペテルゴフ、宝石細工工房、1860年代。リオンの応接間のインテリアはチャールス・キャメロンが1770年代に造ったものです。それをI.A.モニゲッティが1860年代に改めて設計し直しました。大祖国戦争の間に完全に破壊されましたが、ツァルスコエ・セローから分けて疎開させていた品々は被害を免れました。
Source:Wikimedia Commons
By Andrey Korzun - Own work, CC BY-SA 4.0, Link



ツァルスコエ・セロー、エカテリーナ宮殿の内部と家具の展示。リヨンの応接間からの品々。青金石の小卓(ラピスラズリ、金箔を貼ったブロンズ)。設計は、I.A.モニゲッティ。ロシア、ペテルゴフ、宝石細工工房、1860年代。リオンの応接間のインテリアはチャールス・キャメロンが1770年代に造ったものです。それをI.A.モニゲッティが1860年代に改めて設計し直しました。大祖国戦争の間に完全に破壊されましたが、ツァルスコエ・セローから分けて疎開させていた品々は被害を免れました。
Source:Wikimedia Commons
By Andrey Korzun - Own work, CC BY-SA 4.0, Link



ツァルスコエ・セロー、エカテリーナ宮殿の内部と家具の展示。リヨンの応接間からの品々。花台に乗せた花瓶(リヨンの絹、ラピスラズリ、金箔を貼ったブロンズ)。詳細-大メダル、(肖像画などの)円形浮き彫りが下の部分に付いています。設計は、I.A.モニゲッティ。サンクトペテルブルグ宝石細工工房、1860年代。リオンの応接間のインテリアはチャールス・キャメロンが1770年代に造ったものです。それをI.A.モニゲッティが1860年代に改めて設計し直しました。大祖国戦争の間に完全に破壊されましたが、ツァルスコエ・セローから分けて疎開させていた品々は被害を免れました。
Source:Wikimedia Commons
By Andrey Korzun - Own work, CC BY-SA 4.0, Link


つづく