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岩手県 歴史短訪
A中尊寺を歩く
青山貞一   池田こみち
掲載月日:2011年8月29日
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◆岩手県歴史短訪 世界遺産になった中尊寺
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 @はじめに苦言を少々
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 A中尊寺を歩く
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 Bそして金色堂に
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 C金色堂覆堂とその周辺
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 D白山神社ととその周辺
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 E平泉文化と毛越寺
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 F毛越寺を歩く(前編)
歴史短訪・中尊寺/毛越寺 G毛越寺を歩く(後編)

それはそれとして平泉の中尊寺へ

 それはそれとして、私たちは宮城県の気仙沼市の被災地を調査した後、南三陸に向かっていたが、どうみても南三陸まで行き、視察して新花巻駅まで戻ると時間が足りなくなる。そこで、気仙沼市の大谷(実はこれも被災地)から折り返し、一路、一関市経由で平泉に車を飛ばした。

 平泉には、もちろん電車でも行ける。下は平泉駅である。ここから歩いて中尊寺や毛越寺に行けると、1日あるいは半日のトレッキングコースもある。


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

 私たちは平泉町営の駐車場(以下の写真の現在位置)に車を置き、上り坂の参道を登ってゆった。

 
撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

●まず奥州藤原氏とは?

 奥州藤原氏は前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。

その奥州藤原氏が築いた平泉文化とは?

 長治2年(1105年)、藤原清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。

 永久5年(1117年)に基衡が毛越寺を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。

 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。

 下の図は、最盛期の奥州藤原氏、平泉文化を示している。


最盛期の奥州藤原氏、平泉文化
出典:トランヴェールの2011年9月号


●中尊寺とは   中尊寺公式Web


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

 中尊寺は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。開山は寺伝では円仁(慈覚大師)とされるが、実質的な開祖は藤原清衡である。

 奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(こんじきどう)を始め、多くの文化財を有する。1979年(昭和54年)5月22日、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定された。

 2001年(平成13年)に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉の文化遺産」の一部として記載されたが、2008年(平成20年)の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。文化庁・岩手県では、ユネスコへの再度の申請を行い、2011年(平成23年)5月に国際記念物遺跡会議が世界遺産への登録を勧告、同年6月に世界文化遺産に登録された。

●中尊寺にある伽藍

 金色堂に到達するまでに参道の左右にたくさんの寺や神社がある。山内には中尊寺本坊のほか以下の17か院の子院がある。
 
 大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、
 真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、
 利生院、円教院、円乗院


弁慶堂




撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

弁慶堂

 弁慶堂は中尊寺の参道沿いで最初に出会う堂で文政9年(1826)の再建である。

 藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置する。

 弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。


地蔵堂


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

  夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡

  五 月 雨 の 降 り の こ し て や 光 堂

  芭蕉

松尾 芭蕉

 松尾芭蕉は寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。

 蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。


奥の細展が開催されていた
撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


松尾芭蕉翁句碑
撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

 この辺からは平泉の農村風景が垣間見える! 


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


●薬師堂




撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

薬師堂

 薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔四十余字建立の一字であった。その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されている。

 また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当座しかない。

 この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われた。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。またこの御堂には子安地蔵が安置されている。

 その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている


観音堂


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


●中尊寺本堂


撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8


中尊寺の本堂
動画撮影:青山貞一



撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8

中尊寺本堂

 本堂は中尊寺の中心となる寺院であり寺社の規模も最大。奥州藤原氏が亡ぶと次第に勢いも無くなり、建武4年(1337)には火災により多くの堂宇と共に本堂も焼失した。

 近世、伊達藩の庇護の元、多くの建物が再建され、本堂前にある山門も元々一関藩主であった伊達兵部宗勝の居館であった一関城より万治2年(1659)に移築された。

 山門は薬医門形式で左側に脇門があるなど城郭建築の一端を見る事が出来る。現在の本堂は明治42年(1909)に再建されたものであり比叡山延暦寺より分火された「不滅の法燈」や様々な儀式などが執り行われている。


つづく