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●中尊寺から毛越寺へ 今回は三陸海岸被災地現地地札の合間での平泉文化短訪ということもあり、残念ながら腰を据えてじっくり平泉文化を堪能することはできなかった。 それでも私たちは中尊寺を一通り短訪してから、車で毛越寺に向かった。向かう道路は、下の写真にあるように、電信柱は一切無く、景観的な配慮もある。 撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8 ●全盛期の平泉 知られているようで知られて異な事に、藤原清衡が平泉の地に構築したのは、何も中尊寺はもとより毛越寺ばかりではなかった。 広く言えば、全盛時の平泉文化は、金鶏山の麓に中尊寺と毛越寺が、さらに金鶏山の前には、京都の平等院に匹敵する無量光院が広がっていた。 まさにこの時代、藤原清衡は京都とは別に、もう一つの京都を東北の地に構築したのである。 下の図は、最盛期の奥州藤原氏、平泉文化を示している。毛越寺は下の図中、左上に位置している。 最盛期の奥州藤原氏、平泉文化 出典:トランヴェールの2011年9月号 下の写真は平等院である。奥州藤原氏は、東北の地で京都に比肩する建築、文化を構築していたのである。 出典(下の解説も):Wikipedia 平等院 京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。 また鳳凰堂が10円硬貨の表の絵柄として有名である。 ●平泉文化と毛越寺 往事、中尊寺と毛越寺は、奥大道でつながっていた。つながっていたのは、中尊寺と毛越寺だけでない。奥大道は、北は青森の外が浜、南は福島南端の白河関まで通じ、物資、文物から文化を伝える貴重な通り道となっていたのである。 その影響範囲は、遠く北海道から樺太まであったとする学説もある。 ※ たとえば、「海外に繋がる奥大道」、トランヴェールの2011年9月号 藤原清衡は長治2年(1105年)、奥州藤原氏の一代拠点である平泉に最初院(後の中尊寺)を建立したあと、永久5年(1117年)に基衡は毛越寺を再興した。 その後基衡は毛越寺などの造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いださえ言われている。 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と四代、百年に渡り繁栄を極めた。東北の平泉は平安京に次ぐ日本第二の大都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。往事は17万人がこの地に住んだと言われている。 毛越寺は岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院であり、開山は慈覚大師円仁、現在、本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩が安置されている。 「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として史跡に指定されたのは、1922年(大正11年)10月12日。現在では、国の特別史跡、特別名勝に指定されている。 2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。2005年7月には史跡の追加指定がなされた。 2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。登録は結局見送られたものの、文化庁・岩手県では、ユネスコへの再度の申請を目指し、2011年5月に国際記念物遺跡会議が、世界遺産への登録を勧告し、同年6月25日に世界遺産に登録された。 撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8 下は毛越寺のエントランス。拝観料は大人ひとり500円である。 撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8 ●毛越寺の庭園 毛越寺は「吾妻鏡」によると慈覚大師円仁が開山し、主に藤原氏二代基衡、三代秀衡が再興し伽藍の造営にあたったとされている。 毛越寺における伽藍など建物数は、四十余宇、禅坊五百余宇のある。それは中尊寺の四十余宇、禅坊三百余宇よりも大きかったことが推定される。 毛越寺の主な建築物は金堂、開山堂、嘉祥寺、講堂、金堂円隆寺、鐘楼、経楼、常行堂、常行堂、法華堂である。 毛越寺の伽藍復元図 撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8 非常に残念なことだが、毛越寺では嘉禄2年(1226)、天正元年(1573)、慶長2年(1597)に起きた三度の火災で伽藍は焼失、藤原三代の滅亡とともに毛越寺のたくさんの伽藍も消えていった。 しかし、平安時代を代表する浄土式庭園、往事の平泉文化を表す毛越寺の庭園は、今なお平泉の地に残されている。東西に長い大泉池、南東に出島、また金堂、開山堂、嘉祥寺、講堂、金堂円隆寺、鐘楼、経楼、常行堂、常行堂、法華堂は、それぞれの礎石が残されており、見ることが出来る。 なお、出島近くには飛島があり立石がある。また遣水と呼ばれる池に水を取り込む水路がある。これは平安時代の遺構として唯一のものである。遣水には玉石を底に敷き詰めている。そこでは曲線の流れを作ったり、水切り石、水越など作庭記で見られる技法が多数使われている。 遣水 撮影:青山貞一 Digital Camera Nikon CoolPix S8 つづく |