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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所( Auschwitz=Birkenau concentration camp : ポーランド) 地図
<ポーランド> アウシュヴィッツ・ビルケナウ  モノヴィッツ  ベルゼック  マイダネク  ソビボル  トレブリンカ  ヘウムノ
 クラクフ・プワシュフ   ポズナン   ポトゥリツェ  グロース・ローゼン  シュトゥットホーフ  ソルダウ   トラウニキ
ワルシャワ  ワルシャワ・ゲットー  ウッチ・ゲットー  ルブリン・ゲットー   ビャウィストク・ゲットー  ブロツワフ・ドゥルゴイ
チェスストコワ・ゲットー   ラドム・ゲットー   クラクフ・ゲットー  死の谷・ブィドゴシュチュ イェドヴァブネ事件 個別収容所詳細ヘ 
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概要
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とは、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。

※ 英  Auschwitz=Birkenau concentration camp
   独  KZ Auschwitz=Birkenau
   波  Oboz koncentracyjny Auschwitz=Birkenau
   日  アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

 収容された90%がユダヤ人(アシュケナジム)であった。アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツに、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村につくられた。

 周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

出典:Wikipedia

ポーランド内のナチスドイツの強制収容所及び絶滅工場付き収容所の位置  出典・Source:Wikimedia Commons
 出典・Source:Wikipedia Commons
By Lonio17 na podstawie: Maria Wardzyńska: Był rok 1939. Operacja niemieckiej policji bezpieczeństwa
w Polsce. Intelligenzaktion. Warszawa: Instytut Pamięci Narodowej, 2009 - Praca własna, CC BY-SA 4.0, Link

収容所名 国(現在) 収容所の種類 運用期間 囚人の概数 死者の概数
アウシュヴィッツ=ビルケナウ
強制収容所
ポーランド 絶滅・労働収容所 1940年4月 ~1945年1月 400,000 1,100,000~
1,500,000
上記出典:アウシュヴィッツ強制収容所見学概要

解説
 アウシュヴィッツ強制収容所は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの3つの施設から構成されている。いずれも鉄道の支線で結ばれており、囚人は貨車で運ばれてきた。地図中、収容所が黄色、関連施設が青い灰色でしめされている。現在、アウシュヴィッツⅠ、Ⅱは連絡バスで結ばれている。中世の面影を残す世界遺産都市、クラクフ(Krakaw)からアウシュヴィッツⅠへは、クラクフ駅隣のバスターミナルからバスでアウシュヴィッツⅠと行き来できる。

 なお、映画シンドラーのリストは、アウシュヴィッツⅢが背景となっている。世界遺産としてのアウシュヴィッツ強制収容所は、Ⅰ、Ⅱが公開されており共通入場券となっている。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語: Oboz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)とは、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容された90%がユダヤ人(アシュケナジム)であった。

 アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。

 ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばである。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

 アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツが行ったホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940年から1945年にかけてドイツが占領下においた現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群の総称である。ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

 地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。

 また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策がドイツ国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。

 労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ。一説には「強制収容所到着直後の選別で、70 - 75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。

 収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、ソ連兵捕虜、聖職者、エホバの証人、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。

 理由として、ナチス党が掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。

 領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったことなどが挙げられる。

 併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

 すべての強制収容所は、ナチス親衛隊(SS)の全国指導者であったハインリヒ・ヒムラーによって、SSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くのドイツ企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。

10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。

1942年 - 1944年 - モノヴィッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ」とも呼ばれる。

1942年1月25日 - ヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令。

1943年1 - 3月 - 105,000人を超えるユダヤ人が到着。
5月30日 - SS医師ヨーゼフ・メンゲレが着任。

1944年4 - 11月 - 585,000人を超えるユダヤ人が到着。

8月2日 - 第二強制収容所の家族練に収容されていたジプシーに対して最後の処刑が行われる。当日、約3,000人が殺害され、アウシュヴィッツからジプシーは一掃された。殺害された総数は推定で2万人。

10月7日 -ゾンダーコマンドによる武装蜂起。ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」を破壊するが、まもなく鎮圧された。

1945年1月27日 - ソ連軍により解放。

1947年4月16日 - 初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュヴィッツにて絞首刑。

1979年 - 「アウシュヴィッツ強制収容所」として、ユネスコ世界遺産に登録。
2007年6月27日 -世界遺産登録上の名称を「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」に変更。

2009年 - 「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」看板が何者かに盗まれ、のち3つに切断され捻じ曲げられた形で発見される。2011年5月に修復完了。今後は複製品を掲示し、実物は厳重に保管される予定。

アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)

 1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000 - 16,000人、多いときで20,000人が収容された。

 被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっている。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノヴィッツ」を含め、アウシュヴィッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。

 入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考える向きもあるが、実際にはこの書体は当時の流行であった。

 10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房などといった具合に分けられている。また、アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設がつくられたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。

アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ

 被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。

 アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプールがあった。

 ガス室は、農家を改造したものが2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があったとされるが、これらは被収容者の反乱や撤退時に行われた何かしらの証拠隠滅を目的とした破壊により原型をとどめていない。

 収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)は、湿地の上に満足な基礎工事もなく建てられており、特に粗末なつくりであったと伝えられている。ここには主に女性が収容された。

 アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ については、

 モノヴィッツをご覧ください。


 アウシュヴィッツⅠⅡⅢについては、以下の論考、資料もあわせてご覧ください。以下には収容所の歴史、組織、選別、生活、人体実験などについて詳述しています。

 ・強制収容所の歴史 
 ・強制収容所の組織体制  
 ・アウシュヴィッツⅠⅡⅢ共通解説
 ・ナチスドイツの人体実験 
 *アンネ・フランク

赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK)
 まずは「赤十字国際委員会(ICRC)」と「ドイツ赤十字(DRK)」[28]の違いを簡単にでも知る必要がある。

 ICRCは中立性を重視した赤十字組織で、世界中の紛争地域へ介入を行うことを目的とした国際機関であり、本部はスイスのジュネーブに置かれている。一方DRKは、ジュネーブ条約締約国のドイツに設けられた各国赤十字組織であり、活動の中心はドイツ国内である(「日本赤十字東京支部」に概要)。

 特に、戦時中の両者はまったくの別組織であり、ホロコーストを研究するにあたっては、どちらの赤十字が作成した資料かを見極める必要がある。

輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC) 
 スイス人技術者などは戦時中もドイツ国内を自由に移動でき、強制収容所内の細部についてはさておき、1938年頃より後にもたらされたドイツに関する情報はICRCが注視せざるを得ないものであった。

 各強制収容所に数多くの援助物資を送り続けるが、ナチスの非人道的な行いの調査と実効的な手段による行動については消極的であった。

 理由として、本部の依拠するスイスと当事国であるドイツが国境を接し、産業でも強く結びついていたことにより、永世中立国と言えどもナチスの動向には敏感にならざるを得ない状況であったこと、赤十字の活動には原則当事国の承諾が必要なため表立った非難は状況をさらに困難にすると考えられていたこと、さらにはジュネーブ条約の条項に一般市民(文民)保護に関する規定がなかったことなどが挙げられる。

 特にスイスの国益に関する問題は大きな足かせであった。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領フィリップ・エッターは、断固たる態度を示すことに反対し、ICRC委員長のカール・ブルクハルト(de:Carl Jacob Burckhardt)は、ファシズムよりも共産主義の拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとした(カール・ブルクハルトがドイツ系スイス人であったことも関係)。

 このような状況下で強制収容所に送り込まれた視察員は、意図してつくられた平和的な光景に惑わされることになる[30]。ICRCが実効的な手段を執るようになったのは、ドイツの敗色が濃厚になり、いよいよ残りすべての被収容者を処刑しはじめようとした1945年から主だった強制収容所にICRC委員を"常駐"させ監視できるようになったことで、それまで送り続けていた援助物資が被収容者に確実に届きはじめ、併せて消えかけた命も救われた。

 1995年、ICRC委員長コルネリオ・ソマルガは、アウシュヴィッツ解放50年周年式典に出席するにあたり、当時の対応に誤りがあったことを認め遺憾の意を表明した。

ナチス党政権下のドイツに組み込まれた赤十字 (DRK)
 1933年にイギリスの王族出身でナチス党員のカール・エドゥアルト元公爵が総裁職に(後に国会議員も兼任)、1937年にSS高級将校エルンスト・ロベルト・グラーヴィッツが総裁代行職にそれぞれ就任したことは、DRKがナチスまたはSSの一部局であることを象徴するものであり、後の組織改編を経て決定的となる。

 赤十字の基本原則である「平等」が破棄されるとともに、ナチスの標榜する人種的な抑圧政策が持ち込まれた。強制収容所の人体実験や選別は、間接的に関係したというあいまいなものではなく、DRKの行為そのものであったと言える[32](DRKの詳細な徽章はこちら)。

 1945年4月、エルンスト・グラーヴィッツはベルリンが戦場になる中、家族を巻き添えにして手榴弾で自殺。カール・エドゥアルトは非ナチ化裁判で有罪となり、重い罰金を課せられるとともに、財産のほとんどをソ連に没収された。赤十字の崇高な理念に反するだけでなく、まさに利用していたことは、苦しい時代を生きた人々の信頼を著しく失墜させた。

解放
 1944年の暮れ、ソ連軍の接近に伴い強制収容所および強制労働者の扱いが問題となる。11月には、SSの一部局である「親衛隊人種及び移住本部」が「強制労働者を管理組織が独自の判断で処刑するように」との通達を出している。これを受けて産業界は、自らの手を汚すまいと強制労働者をSSに返還することを取り決めており、SS、産業界双方に「解放」という姿勢は見うけられない。

 アウシュヴィッツの被収容者は、なおも活動を続けるドイツ本国の強制収容所に移送されるか、または処刑されるかのいずれかであった。実際は約7,500名が1945年1月27日の解放時にとどまっており、これはソ連軍の急速な接近による混乱、一部証言にある「ドイツへ行くか残るか選ぶことができた」といったような処置、

 さらには処刑や移送が間に合わなかったなどの可能性が考えられる。移送された被収容者は合計で60,000人に上るとされるが、移送途中にも多くが命を落としている。移送で生き残った者は、別の強制収容所に入れられるだけのことで、実際の解放までに数ヵ月間待たなければならなかった。


現在のアウシュヴィッツ
 多くの要人が公式・非公式にかかわらずこの地を訪れている。一例として、1979年にはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、2006年5月28日にはベネディクト16世が訪問している。

 ベネディクト16世は「この地で未曽有の大量殺戮があったことは、キリスト教徒として、ドイツ人の教皇として耐え難いことだ」と述べた。2016年にはフランシスコが訪問。フランシスコは「惨劇の場では言葉は無用」と「死の壁」の前や「聖コルベの監獄」の中で黙祷した。

 年間を通じてイスラエル人学生の修学旅行のルートになっている。日本からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オシフィエンチム博物館から展示物を譲り受けた「アウシュヴィッツ平和博物館」が福島県白河市にある。

アウシュヴィッツの死亡者数について
 現在のアウシュビッツ収容所博物館および公式ページでは、1999年の研究により1944年までに強制収容されたユダヤ人は110万人であり、そのうち20万人は労働に供されたと書かれている。

 ニュルンベルク裁判では、「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と認定し、オシフィエンチム博物館の碑文にもそのまま「400万人」と記載されていたが、冷戦後の1995年「150万人」に改められている。

 終戦直後の1945年当時にソ連が主張した400万人という数は、当時の非ナチ化の影響を強く受けていると認識されている。同様に近年においても、新たに主張される死亡者数の多い少ないにかかわらず政治または宗教的背景に影響されていることが多い。

   
世界遺産
 1979年、第一・第二強制収容所の遺構は第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきものとして、ユネスコの世界遺産に登録された。日本では、いわゆる「負の世界遺産」に挙げられる。

登録基準
 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

改名提案
 かねてからポーランド政府は「ポーランド人が作ったかのような印象を与える」として登録名称の変更を要請しており、ユネスコ世界遺産委員会は2007年6月27日に「アウシュヴィッツ強制収容所」から「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)」へ変更した。

被収容者
・アルマ・ロゼ: 音楽家。アウシュヴィッツのオーケストラを指揮。1944年4月4日、同強制収容所で死亡。死因は中毒死。

・アンネ・フランク: 「アンネの日記」の原作者。両親や姉を含む、隠れ家生活での同居人達とともに移送されて来て、アウシュヴィッツに2ヵ月間収容される。再移送先のベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスを患い1945年3月頃死亡。父オットーはアウシュヴィッツに留まったが、隠れ家生活での同居人中唯一の生還者となる。同居人の中では、ヘルマン・ファン・ペルスと母エーディトが、同収容所で死亡させられている。

・イェヒエル・デ・ヌール: 作家。ホロコーストの代弁者。

・ヴィクトール・フランクル: 精神科医、作家。治療法「ロゴセラピー」の提唱者。「夜と霧」「死と愛」などの著書がある。

・エーディト・シュタイン: 聖職者。1942年8月9日、実の姉とともにガス室で処刑される。1998年、聖人に列せられた。

・エリ・ヴィーゼル: 作家。ホロコーストに関する著作物など多数執筆。1986年、ノーベル平和賞受賞。

・カレル・アンチェル: 音楽家。家族全員がアウシュヴィッツに収容され、カレルだけが生還した。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、カナダ・トロント交響楽団の常任指揮者を歴任。

・ギデオン・クライン: 音楽家。アウシュヴィッツに収容されていた時期もある。1945年1月頃、強制収容所で死亡。

・ケルテース・イムレ: 作家、翻訳家。「運命ではなく」「挫折」などの著書がある。2002年、ノーベル文学賞受賞。

・シモーヌ・ヴェイユ: 政治家。

・ジャック・トラミエル: 企業家。渡米後、後に大手コンピュータ会社となるコモドールを創業する。

・ゾフィア・チコビアク: 音楽家。アウシュヴィッツのオーケストラに参加。

・ドーラ・ジェルソン: 女性歌手。1943年2月アウシュヴィッツにて死亡。

・パヴェル・ハース: 音楽家。テレジン強制収容所からアウシュヴィッツに移送される。同強制収容所にて1944年10月17日死亡。

・ハンス・クラーサ: 音楽家。作品には児童オペラ「ブルンジバル」がある。チェコのテレジン強制収容所からアウシュヴィッツに移送された直後の1944年10月17日、ガス室で処刑された。

・ハンナ・ブレイディ: 「ハンナのかばん」の主人公。チェコのテレジン強制収容所から実の兄がいるアウシュヴィッツに移送される。13歳の幼い少女は労働力とは認められず、1944年頃処刑された。

・プリーモ・レーヴィ: 化学者、作家。「これが人間か」「休戦」などの著書がある。

・マキシミリアノ・コルベ: 聖職者。脱走者が出たための連帯責任で餓死刑を宣告された被収容者の身代わりとなる。1982年、聖人に列せられる。

・マルセリーヌ・ロリダン=イヴェンス: 女優、映画監督。アウシュヴィッツ、ベルゲン・ベルゼン強制収容所、テレジン強制収容所に収容された経験を持つ。「ある夏の記録」などで主演。

加害者的立場でアウシュヴィッツに関与した人物
・イルマ・グレーゼ
・アドルフ・アイヒマン: 警察官僚(親衛隊中佐)。
・イルマ・グレーゼ: 看守。
・エルンスト=ロベルト・グラヴィッツ: 医師。
・カール・エドゥアルト: ドイツ赤十字総裁。
・カール・ゲープハルト: 医師。
・グスタフ・クルップ: クルップ社取締役会議長。
・ハインリヒ・ヒムラー: 親衛隊長官。
・ホルスト・シューマン: 医師。
・マリア・マンデル: 看守。
・モーリス・パポン: 政治家(フランス)。
・ヨーゼフ・メンゲレ: 医師。
・ルドルフ・フェルディナント・ヘス: アウシュヴィッツ強制収容所所長。
・アルトゥール・リーベヘンシェル: アウシュヴィッツ強制収容所所長。
・フランツ・ヘスラー: 看守。

その他
・カール・ブルクハルト: 赤十字国際委員会委員長
・サイモン・ヴィーゼンタール: ナチ戦犯の追及を行い、アドルフ・アイヒマンなどを逮捕した。
・アウシュヴィッツに関する作品

映画・小説
・ソフィーの選択, 小説1979年、映画1982年
・シンドラーのリスト, 小説1982年、映画1993年
・夜と霧, 小説1976年、映画1955年
・サウルの息子、映画2015年

音楽
・『自由への叫び』アレア(1973年)- 原題は『ARBEIT MACHT FREI』
・『エンジェル・オブ・デス』シン・リジィ(1982年)
・『エンジェル・オブ・デス』スレイヤー(1986年)
・『深い森』SEKAI NO OWARI(2012年)

脚注
1.^ 「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史教科書もある。たとえば、『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。

2.^ 世界遺産アカデミー監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』マイナビ、p.23

3.^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300 - 400万人に及ぶポーランド系ユダヤ人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。

4.^ 「アンネの日記」「ハンナのかばん」などが著名。

5.^ 到着直後の処分を免れた被収容者には、一人ひとりに管理番号が与えられており、この総数が約40万件とされる。被収容者の30%に番号が与えられたとして、単純にこれらの数字を参考に総数を試算した場合「133万人」となる。25%だとすると「160万人」。しかし、これは仮定的な数値でしかない。

6.^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。

7.^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。

8.^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少したが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない

9.^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設をつくったことでも知られる。

10.^ 1940年1月現在の工場数。

11.^ アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。

12.^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒアルト・ベイアー(戦後、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。

13.^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノヴィッツ収容所」に改称。

14.^ 3年後に脱出し、アウシュヴィッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。

15.^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は、1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。

16.^ BASF社、バイエル社、ヘキスト社の3社に分割された。

17.^ 「正面」「正面を向き視線を右上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。

18.^ 「Herbert, Geschichte der Auslanderpolitik, S.154.」では更に細かく分類している。「第一にドイツ人、続いて西欧労働者(フランス人市民労働者に続いてベルギー、オランダ人労働者)、そして続いてドイツと同盟あるいは従属関係にある南東ヨーロッパ出身労働者(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身労働者、そしてポーランド人、最後にソ連人、(1943 年イタリア降伏後は)イタリア人、最下層にはユダヤ人が位置していた」。

19.^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。

20.^ アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」
^
21. 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、与えられたランクに応じて食料を配給する制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。

22.^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。

23.^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。

24.^ 絞首刑には移動式の絞首刑台なども用いられた。見せしめによる精神的抑圧を第一の目的としていると言える。

25.^ 占領地にSSが赴き、ユダヤ人や政治犯を殺害するというもの。強制収容所の管理も同じSSが行っている点に注目すると、占領地での殺戮行為が強制収容所内に持ち込まれてもおかしくはない状況と言える。

26.^ ヘースの証言によると、クレマトリウム4と5には資材不足から換気設備が備え付けられていなかった。すべてのガス施設での作業にはガスマスクが必要であったとする証言もある。

27.^ または「ブンカー」とも呼ばれる。

28.^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。

29.^ 1949年に改定(第4項)。

30.^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。

31.^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、スイスの国政にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。

32.^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。

33.^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してドイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。

34.^ アウシュヴィッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。

35.^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュヴィッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。

36.^ http://auschwitz.org/en/history/the-number-of-victims/ As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp


参考文献
・ルドルフ・フェルディナント・ヘス(著)、片岡哲治(訳)、『アウシュヴィッツ収容所;私は人間の尊厳を傷つけた・・・所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』、サイマル出版会、1972年
・Wolf H. Wagner(著)、アウシュヴィッツの子供たち、Wo die Schmetteringe starben; Kinder in Auschwitz, Dietz Verlag, 1995, ISBN 3-320-01867-1
・Sybille Steinbacher, Auschwitz. Geschichte und Nachgeschichte, Munchen: C.H.Beck, 3. Aufl. 2015 (EA 2004).
・中谷剛(著)、ポーランド国立オシフィエンチム博物館唯一の外国人公式ガイド、『アウシュヴィッツ博物館案内』、凱風社、2005年、ISBN 4-7736-2907-X
・ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成-増田好純:東京大学
・第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして―(1,2)-川島祐一:東京電機大学
・インターネットにおける「アウシュヴィッツの嘘」の公開とドイツ刑法の適用-渡邊卓也:早稲田大学
・ドイツにおける現代史教育 ナチの過去に関する歴史教育の変遷と展望-川喜田敦子:東京大学
・ナチ体制下のホロコーストと科学-ズザンネ・ハイム (Susanne Heim):マックス・プランク研究所 川喜田敦子(訳)
・ホロコースト研究におけるロマ民族の位置づけ 犠牲者間の差異をめぐる考察-千葉美千子:北海道大学
・人類の滅亡と文明の崩壊の回避-佐久間章行:青山学院大学
・第三帝国における強制労働-田村光彰:北陸大学
・国際赤十字(ICRC)ホロコーストに関するリリース
・BBC 赤十字国際委員会の光と影
・ナチ収容所とドイツ社会 ブーヘンヴァルト強制収容所とヴァイマル市を例として-増田好純:東京大学
・第二次大戦初期のドイツ戦争経済とイタリア人労働者-阿部正昭:法政大学
・ナチス期ドイツ外国人労働者政策における階層構造-高橋典子:名古屋大学
・ナチスドイツの経済回復-川瀬泰史:立教大学
・事実の不直視-飯田龍一:社会保険山梨病院

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Map showing the location of the three main camps (1944). Prisoners: yellow; facilities: blue-gray
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アウシュヴィッツ強制収容所の入り口、働けば自由になるという標語がかかっている  
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ポーランド・オシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)に置かれたアウシュヴィッツ=
ビルケナウ強制収容所のアウシュヴィッツ第一強制収容所正門。
「ARBEIT MACHT FREI」(「働けば自由になる」)とある。 
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Hole for throw granulated crystal Cyklon B in gas chamber in concentration camp Auschwitz I. 
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ポーランド・アウシュヴィッツⅡ ビルケナウ収容所の遺体焼却炉
ビルケナウのガス室及び遺体焼却炉はWW2終了時、証拠隠滅のため破壊されている
Schautafel von Krematorium II in Birkenau(Gaskammer im Stammlager als I gezahlt) 
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Auschwitz-Birkenau extermination camp    
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historicair</a> 21:20, 28 March 2006 (UTC) - <span class="int-own-work" lang="ja">
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Koncentracyjnego i Zag?ady Ausc…, 1940-1945  
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アウシュヴィッツに強制収容されたユダヤ人らの義足 
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Krematorium II in Auschwitz Birkenau (wenn Gaskammer im Stammlager als I gezahlt wird)   出典・Source:Wikimedia Commons Uberreste von Krematorium II in Birkenau(Gaskammer im Stammlager als I gezahlt) 出典・Source:Wikimedia Commons
By Diether - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5648961
Overblijfselen van een van de gaskamers, voor ziet u de entree met omkleedcambine, rechtdoor aan het eind is de daadwerkelijke gaskamer
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Door Foto: C. Kuhl (ckuhl(at)xs4all.nl) - Verplaatst vanaf <span class="plainlinks"><a class="external text" href="https://nl.wikipedia.org">nl.wikipedia</a></span> naar Commons. Original uploader was <a href="https://nl.wikipedia.org/wiki/User:Ckuhl" class="extiw" title="nl:User:Ckuhl">Ckuhl</a> at <a class="external text" href="https://nl.wikipedia.org">nl.wikipedia</a>, CC BY-SA 3.0, Koppeling
Auschwitz - german-nazi concentration camp, death toll: 1.1 million. Only photos survived... View On Black Explored Nov 8, 2007 #432
出典・Source:Wikimedia Commons
◆映画:「アウシュヴィッツ」の概要

 Directed by Uwe Boll、
 Produced by Sandra Basso、Uwe Boll Dan Clarke Jonathan Shor
 Written by Uwe Boll、 
 Starring Uwe Boll、 Steffen Mennekes、 Arved Birnbaum
 Music by Jessica de Rooij、
 Cinematography Mathias Neumann
 Edited by Charles Ladmiral、
 Distributed by Boll World Sales、Release date 13 February 2011
 Running time 73 minutes、
 Country Germany、
 Language English German

出典・Source:Wikimedia Commons
This is a poster for Auschwitz. The poster art copyright is believed to belong to the distributor of the item promoted, Boll World Sales, the publisher of the item promoted or the graphic artist. 映画アウシュヴィッツのポスター
出典・Source:Wikimedia Commons
By Source, Fair use, Link
収容所別ナチスドイツの強制収容所の生存者(写真は一例)
アウシュヴィッツ強制収容所
Auschwitz concentration camp survivors
 
Source :Wikimedia Commons
出典:United States Holocaust Memorial Museum

Frank Grunwald in 2010 working on the female sculpture that will eventually be a reference to the day his mother and brother were killed in Auschwitz-Birkenau.
フランク・グルンワルドさんは2010年に、最終的に彼の母と弟がアウシュヴィッツ・ビルケナウで殺害された日を参考して、女性の彫刻作りに取り組みました。
出典:United States Holocaust Memorial Museum

CHILDREN WITH THE AUSCHWITZ CAMP NUMBER ON THEIR ARMS ON BOARD THE "MATAROA" IN HAIFA PORT.
イスラエルのハイファ港でマタロア号に乗る子供達、腕にアウシュビッツ収容所の囚人番号が入れ墨されている。
出典:United States Holocaust Memorial Museum
Dina Babbitt   出典・Source :Wikimedia Commons Karel An?erl  出典・Source :Wikimedia Commons
Denis Avey Photo portrait taken during WWII period.
出典・Source :Wikimedia Commons
Primo Levi 
Nazi Germany is the common English name for the period in German history from 1933 to 1945, when Germany was under the dictatorship of Adolf Hitler through the Nazi Party (NSDAP). Under Hitler's rule, Germany was transformed into a totalitarian state in which the Nazi Party controlled nearly all aspects of life.
出典・Source :Wikimedia Commons