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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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トレブリンカ絶滅収容所(Treblinka:ポーランド 地図
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概要
 トレブリンカ(Treblinka)強制収容所は、ワルシャワから北東約90kmに存在したナチス・ドイツの強制収容所である。

※ 英  Treblinka extermination camp
   独  Treblinka Vernichtungslager
   波  Treblinka oboz zag?ady
   日  トレブリンカ絶滅収容所

 ポーランドのユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作戦に則って作られた三大絶滅収容所の一つである(他にベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所)。1942年7月23日の開所から1943年10月19日に放棄されるまでの約14か月の間に、ここで殺害されたユダヤ人の数は73万人以上にのぼる。

 トレブリンカ強制収容所は先に建設された二つの強制収容所(ベウジェツ強制収容所とソビボル強制収容所)と類似した設計になっていた。収容所の敷地は矩形であり、面積は13.5ha。高さ3mの鉄条網や機関銃とサーチライトの備わった監視塔で囲まれていた。絶滅収容所であったため一般の強制収容所と比べると手狭であった。

 付近に人家は少なく、ビルケナウ強制収容所のような鉄道の引込み線が設けられた。収容所内は第一収容区と第二収容区に分かれ、第一収容区には入口・事務所・厨房・倉庫・作業場・菜園・100人から140人ほどのウクライナ人看守の宿舎などがあった。

 第二収容区はユダヤ人特別労務班のバラック、脱衣バラック、ガス室、遺体焼却施設、共同墓地が存在し、ここで虐殺が行われていた。親衛隊員は20名ほどであり、収容所の要職に就いてウクライナ人看守たちを指揮した。彼らは入口の近くの武器庫の側で暮らしていた。ガス室はソビボルと同型で4m四方、高さ2.6m。一見シャワー室に見えるよう天井に給水管に見せかけたパイプが走っており、そこにディーゼルエンジンから排出される一酸化炭素を流し大量殺戮を行っていた。

出典:Wikipedia

ポーランド内のナチスドイツの強制収容所及び絶滅工場付き収容所の位置  
出典・Source:Wikipedia Commons
By Lonio17 na podstawie: Maria Wardzyńska: Był rok 1939. Operacja niemieckiej policji bezpieczeństwa
w Polsce. Intelligenzaktion. Warszawa: Instytut Pamięci Narodowej, 2009 - Praca własna, CC BY-SA 4.0, Link
解説
歴史
 1942年5月にリヒャルト・トマラ親衛隊大尉の指揮により建設工事が開始された。建設工事はリーグニッツのシェーンブルン社(Schonbronn)とワルシャワのシュミット=ミュンスターマン社(schmidt munstermann)が請け負い、作業員としてワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちが動員された。建設案については、トマラは自身が建設指揮をとったソビボル強制収容所に多くの部分を倣った。

 1942年7月よりエルヴィン・ラムベルト親衛隊伍長(de:Erwin Lambert)の指揮の下、ガス室が稼働を開始してユダヤ人絶滅作戦が開始された。トレブリンカには主にワルシャワ地方やラドム地方、ビアウィストク地方、ルブリン地方、マケドニア=トラキア地方、ドイツ本国、テレージエンシュタットからユダヤ人が移送されてきた。送られてきた者はトレブリンカ到着後、数時間のうちに殺害されている。

 1943年8月2日、ユダヤ人特別労務班の反乱がおこり、収容所内の建物を放火してほとんどを焼き払い、収容所にいた1000人の囚人のうち600人ほどが混乱に乗じて脱走に成功した。しかしその後親衛隊の捜索でほとんどの者は再度捕縛された。戦後まで生き残ったのは100人ほどであったという。

 この大規模脱走事件を機に収容所は解体されることになった。8月18日と19日のビアウィストク・ゲットーからの被移送者8,000人のガス殺を最後の活動としてトレブリンカの施設は爆破され、犠牲者の遺体は掘り起こされ焼却された。

 しかしこの折に周囲の町々までその悪臭が漂ったため、遺体処分後土地は改めて整地されてその上にウクライナ系の農民たちの家を建てさせ、通常の農地であるかのように偽装し隠蔽が図られた。これらの隠ぺい工作もユダヤ人労働者を使用して行われ、彼らは全ての隠ぺい作業が完了した1943年11月17日に全員銃殺された。

構造
 トレブリンカ強制収容所は先に建設された二つの強制収容所(ベルゼック強制収容所とソビボル強制収容所)と類似した設計になっていた。収容所の敷地は矩形であり、面積は13.5ha。高さ3mの鉄条網や機関銃とサーチライトの備わった監視塔で囲まれていた。絶滅収容所であったため一般の強制収容所と比べると手狭であった。

 付近に人家は少なく、ビルケナウ強制収容所のような鉄道の引込み線が設けられた。収容所内は第一収容区と第二収容区に分かれ、第一収容区には入口・事務所・厨房・倉庫・作業場・菜園・100人から140人ほどのウクライナ人看守の宿舎などがあった。

 第二収容区はユダヤ人特別労務班のバラック、脱衣バラック、ガス室、遺体焼却施設、共同墓地が存在し、ここで虐殺が行われていた。親衛隊員は20名ほどであり、収容所の要職に就いてウクライナ人看守たちを指揮した。彼らは入口の近くの武器庫の側で暮らしていた。

 ガス室はソビボルと同型で4m四方、高さ2.6m。一見シャワー室に見えるよう天井に給水管に見せかけたパイプが走っており、そこにディーゼルエンジンから排出される一酸化炭素を流し大量殺戮を行っていた。

現在のトレブリンカ
 前述のように収容所は証拠隠滅のためナチスによって徹底的に破壊されたため当時の建物は一つも残っていない。現在の収容所跡地には鉄道の引き込み線や犠牲者の持ち物などを焼却した縦穴、ガス室の存在を示す地下からの換気のための煙突が地表付近にいくつか覗いているが、これらはいずれも復元されたものである。


 しかし移送されてきたユダヤ人たちが降り立ったプラットホーム跡、収容所へ向かう鉄道の支線が通されていた獣道、そしてたくさんの慰霊碑や記念碑などが当時の面影を偲ばせている。

 近隣に鉄道路線はなく、訪問者の多くは1時間半の道のりをワルシャワで観光バスなどのチャーター便もしくはレンタカーを仕立ててくる。史跡としての整備は最小限に留められ、収容所跡地周辺もパンフレットなどを販売する売店が散在する程度で宿泊施設も存在せず、外国から訪れるには相応の準備を必要とする。

関連人物
所長
・リヒャルト・トマラ親衛隊大尉(1942年5月-1942年6月)
・イルムフリート・エベール親衛隊中尉(1942年7月-1942年9月)
・フランツ・シュタングル親衛隊大尉(Franz Stangl)(1942年9月-1943年8月)
・クルト・フランツ親衛隊少尉(Kurt Franz)(1943年8月-1943年11月)

主な所員・看守
・ハインリヒ・マテス親衛隊軍曹(Heinrich Matthes)凶暴で知られた看守。
・エルヴィン・ランベルト親衛隊伍長(Erwin Lambert)
・グスタフ・ミュンツベルガー親衛隊伍長(Gustav Munzberger)
・フランツ・ズーホメル親衛隊伍長(de:Franz Suchomel) 
・マックス・ビアラ親衛隊兵長(Max Biala) 囚人に殺害された看守。

主な囚人
・ヤヌシュ・コルチャック(Janusz Korczak)

出典
1.^ 芝健介、174頁
2.^ a b マルセル・リュビー、373頁
3.^ a b c マルセル・リュビー、362頁
4.^ 芝健介、179頁
5.^ a b 長谷川公昭、177頁
6.^ 芝健介、180頁
7.^ a b マルセル・リュビー、363頁
8.^ a b ラウル・ヒルバーグ、158頁
9.^ a b マルセル・リュビー、364頁
10.^ マルセル・リュビー、366頁
11.^ a b マルセル・リュビー、368頁
12.^ ラウル・ヒルバーグ、170頁
13.^ a b マルセル・リュビー、367頁
14.^ 長谷川公昭、178頁
15.^ マルセル・リュビー、363・364頁
16.^ 芝健介、181頁

参考文献
日本語文献
・マイケル ベーレンバウム著、石川順子訳、高橋宏訳、『ホロコースト全史』、1996年、創元社、ISBN 978-4422300320
・栗原優著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』、1997年、ミネルヴァ書房、ISBN 978-4623027019
・ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』、1997年、柏書房、ISBN 978-4760115174
・マルセル・リュビー著、菅野賢治訳、『ナチ強制・絶滅収容所』、1998年、筑摩書房、ISBN 978-4480857507
・ジャン=フランソワ・ステーネル著、永戸多喜雄訳、『トレブリンカ : 絶滅収容所の反乱』、1967年、河出書房
・サムエル・ヴィレンベルク著、近藤康子訳、『トレブリンカ叛乱 死の収容所で起こったこと 1942-43』、2015年、みすず書房、ISBN 978-4622079200

出典:Wikipedia
The Wannsee Conference, where the plans for Operation Reinhard and
the Treblinka extermination camp were outlined, took place at this villa.  
この別荘では、ラインハルト作戦(ユダヤ人大量虐殺作戦)とトレブリンカ絶滅収容所計画が策定された
ヴァンゼー会議(15名のヒトラー政権の高官が会同して、ヨーロッパ・ユダヤ人の
移送と殺害について分担と連携を討議した会議)が開催された。
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0, Link
トレブリンカ第二収容所の施設配置スケッチ。1967年、ドイツのスタングルで行われた裁判で描かれたもの。ただし、掘削機械よって掘削された埋葬溝がある火葬場周辺の土地が抜け落ちている。 (1)鉄道駅の降車プラットホーム、(2)ニセの鉄道駅、(3)犠牲者が収容されたバラック、ここで犠牲者は強制的に服を脱がされた、(4)ガス室、(5)ガス室で焼き殺された犠牲が入れられたピット。 
出典・Source:Wikimedia Commons
占領下のポーランドにおいて、平均100人の犠牲者を輸送したホロコースト「ボックスカー:貨車(Guterwagen)」 
Source:Wikimedia Commons
, CC BY 2.5, Link
Treblinka memorial (2005)  
トレブリンカ記念碑(2005年に撮影)
出典・Source:Wikimedia Commons  Own work, CC BY-SA 3.0 pl, Link
Standard Holocaust locomotive, DRB Class 52    
標準的なホロコースト列車 ドイツ鉄道局(DRB)クラス52
出典・Source:Wikimedia Commons BCC BY 2.5, Link
1942年、ワルシャワ・ゲットー・ウムシュラッラプラッツでトレブリンカへ列車に乗り込んだユダヤ人
出典・Source:Wikimedia Commons  Public Domain, Link
1942年8月23日にシェドルツェのゲットー解体中に一万人のポーランド・ユダヤ人をトレブリンカに移送した。注)シェドルツェ:ポーランド東部,マゾウィエツキェ県の都市。ワルシャワの東約 90km,  ワルシャワとモスクワを結ぶ鉄道,道路の要地に位置する。
出典・Source:Wikimedia Commons ., Public Domain, Link
.遺体が焼かれた元の火葬場の墓穴に似せた石の記念碑。これは、焦げた炭を象徴する黒い玄武岩を粉砕してセメントで固めた平らな墓標である。 実際の人間の灰は砂と混合され、22,000平方メートル(237,000平方フィート)以上に散布された。
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 pl, Link
トレブリンカの親衛隊髑髏部隊のメンバー(左から):Paul Bredow、Willi Mentz、Max Moller、Josef Hirtreiter
注)SS-Totenkopfverbandeについて(Source:Wikipedia)
親衛隊髑髏部隊(独: SS-Totenkopfverbande、略称: SS-TV)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の部隊。戦前には強制収容所(KZ)を監督していた部隊であり、戦時中には第3SS装甲師団「トーテンコップ」の中核となった。部隊のモットーは「寛容は弱さの印」(Die Toleranz ist das Zeichen der Schwache)
出典・Source:Wikimedia Commons, Public Domain, Link
1943年8月2日、囚人蜂起の間にトレブリンカ第二周辺を燃やした。周囲の建物に火災に巻き込んだガソリンタンクをはじめ、収容所内の兵舎/バラック含めて激しく燃えあがった。この秘密の写真はFranciszek Z?beckiによって撮影された。(寛容は弱者の印)
出典・Source:Wikimedia Commons , Public Domain, Link
収容所の生存者サミュエル・ウィレンベルグは、収容所跡地にある闘争と殉教の博物館で、トレブリンカ第二収容所の絵を描いている。 右側には "感染症病院/隔離病棟(Lazaret)"である殺傷場がある。
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 pl, Link
ワルシャワでの大量殺戮が行われた1942年7月から1942年9月までの間のトレブリンカへの囚人移送経過(グラフ)
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0, Link
トレブリンカの象徴的な遺跡である鉄道跡
出典・Source:Wikimedia Commons
By Little Savage - Own work, Public Domain, Link
考古学的掘削調査の中で発見されたタイルの1つ。トレブリンカのガス室の存在に関する最初の物理的証拠
出典・Source:Wikimedia Commons By Source (WP:NFCC#4), Fair use, Link
収容所別ナチスドイツの強制収容所の生存者(一部)
トレブリンカ絶滅収容所
Treblinka Extermination camp survivors
 
出典・Source:Wikimedia Commons
This is a poster for Shoah (film). The poster art copyright is believed to belong to the distributor of the film, New Yorker Films, the publisher of the film or the graphic artist.  出典・Source:Wikimedia Commons
By Source, Fair use, Link
Richard Glazar (29 November 1920 ? 20 December 1997), a Czech Jewish author who lived through World War II. He was one of survivors of the Treblinka death camp prisoner revolt. He portrayed the horror of Treblinka in his autobiographical book titled Trap with a Green Fence (cover photo).
出典・Source:Wikimedia Commons
By Source (WP:NFCC#4), Fair use, Link