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スコットランド総目次へ* メアリーの生誕地、リンリスゴー リンリスゴー城1 リンリスゴー城2 ニュー・ラナーク1 ニュー・ラナーク2 ニュー・ラナーク3 ニュー・ラナーク4 ニュー・ラナーク5 ニュー・ラナーク6 ニュー・ラナーク7 ニュー・ラナーク8 ニュー・ラナーク9 ニュー・ラナーク10 ニュー・ラナーク11 Source:New Lanark Visitor Center Source:UNDISCOVERED SCOTLAND 知られざるスコットランド https://hainmueller.de/publikationen/lernen-aus-der-vergangenheit-new-lanark.html (ドイツ語の紹介サイト) https://www.timetoast.com/timelines/new-lanark-reino-unido (New Lanark, Reino Unido Timeline created by judavila In History) ◆労働者福祉・子供教育 当時のニュー・ラナークには500人ほどの子供が暮らし、町の一角は「ナーサリー・ビルディングス」(Nursery Buildings)と呼ばれていました。子供たちは工場で働いていましたが、オウエンは彼らのためにイギリスで初となる幼児学校(infant school)を1816年に創設しました。 工場群は商業的に成功しましたが、オウエンの福利プログラムによって彼のパートナーたちは余計な出費を強いられました。オウエンは旧来の操業に戻すことをよしとせず、パートナーたちの権利を買い取ったのです。 ニュー・ラナークの名声はヨーロッパ中に伝わり、王族、政治家、社会改良主義者らが多く訪れました。彼らはその清潔で衛生的な工業環境、満足して活力にあふれた労働者、全員が力を合わせて作り上げた成功したベンチャービジネスの姿を目にして驚嘆しました。 オウエンの哲学は当時の思想とは対極のものでしたが、彼は実際に労働者を劣悪な境遇に置かずとも利益をあげられることを示したのです。オウエンは訪問者たちに町の優れた住居や公共施設、さらには工場の収益性を示す会計書類を示すことができました。 ニュー・ラナークの工場群は社会改良主義、社会主義、福利厚生などと密接に結びついていましたが、同時にそれは18世紀から19世紀にイギリスで興り世界の姿を根底から変えた産業革命を代表するもののひとつでもあったのです。 1825年にニュー・ラナークの経営権はウォーカー(Walker)家に移った。ウォーカー家は1881年までそこを経営したが、その年にバークマイア(Birkmyre)とサマーヴィル(Sommerville)に売却されました。彼らとその後継企業は、1968年に工場群が閉鎖されるまで村の経営に携わりました。 New Lanark View Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Link 工場が閉鎖されると人々は離村し始め、建造物群も劣化して行きました。1963年に住宅組合としてニュー・ラナーク組合(New Lanark Association)が発足し、ケースネス・ロウ(Caithness Row)とナーサリー・ビルディングスの修復が始まりましたが、工場群をはじめとする産業施設や、デイルやオウエンが暮らした住居群は、1970年に屑鉄企業のメタル・イクストラクション社(Metal Extractions Limited)に売却されました。 1974年には村の風化を避けるためにニュー・ラナーク保全トラスト(the New Lanark Conservation Trust, NLCT)が発足し、1983年にはメタル・イクストラクション社に対して産業施設群の修復を目的とする強制収用の命令が適用されました。現在、それらの産業施設群は保全トラストの管理下にあります。2005年までにほとんどの建造物が修復されましたニュー・ラナークは一大観光地となっています。 「ニュー・ラナーク7」につづきます スコットランド総目次へ* |