チェコ・スロヴァキア・ハンガリー短訪 チェコ・フラッドチャニ・プラハ城 鷹取敦 掲載月日:2018年12月26日
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■フラッドチャニプラハ2日目は朝から地下鉄でヴルタヴァ川(モルダウ川)の対岸にあるプラハ城に向かいました。ヴルタヴァ川(南から北に流れている)の左岸(西側)の丘にあるプラハ城周辺の地区は「フラッドチャニ」と呼ばれています。「フラッチャニ」、「フラチャニ」という表記もあります。「フラッド」はチェコ語で「城」を意味します。875年にプシェミスル朝のボジヴォイ1世が居住地を移したのがフラッドチャニの歴史のはじまりです。973年にはプラハの司教区が独立し、プラハ城が司教の住居となりました。下の写真は地下鉄の駅から地上に登ったあたりです。河畔の平らな石畳の上をトラムが走っています。ここからプラハ城のある丘の上に歩いて登ります。 Malostranska駅前 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 プラハ城のある急峻な斜面の丘を斜めに坂を登っていきます。 プラハ城への坂 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 丘の上へ到る最後の部分は長い急な階段でした。 プラハ城への階段 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 階段を登り切り振り返ると市街地が一望できます。下の写真の奥の方向にヴルタヴァ川があります。 フラッドチャニの丘から見下ろす風景 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■プラハ城下の写真は現地に設置されているプラハ城の案内板です。中央やや左の巨大な焦げ茶色の建物は聖ヴィート大聖堂です。周辺のオレンジの屋根の部分に王宮美術館、聖十字礼拝堂、旧王宮、聖イジー教会、ロブコヴィツ宮殿などがあります。聖ヴィート大聖堂を中心とした城であることが分かります。プラハ城はボヘミア国王や神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の居城となり、現在は大統領府のある場所です。ボヘミア、チェコの中心地として歴史上のさまざまな出来事の舞台となりました。フス戦争の間とその後10年間は城は荒れ果てたまま放置されました。また、ナチスの占領時代にはドイツの親衛隊の実力者ラインハルト・ハイドリヒの本拠地とされています。ギネスブックによると世界で最も古くて大きい城ということです。長さ570m、平均の幅が約130mあります。 プラハ城の案内板 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下はグーグルマップからプラハ城(右半分)を含めたフラッドチャニの丘の全景を表示したものです。左半分はなだらかに低くなっていき、丘の中央寄りに大司教宮殿や国立美術館、左寄りにロレッタ教会などがあります。 フラッドチャニ全景(グーグルマップより) ■聖ヴィート大聖堂下のグーグルマップの左側下に広場があり、ここから城郭の中に入ります。右上の巨大な聖堂が聖ヴィート大聖堂です。プラハ城入口から聖ヴィート大聖堂付近(グーグルマップより) あまりにも大きいため、城内の3つ目の中庭の後ろまで下がってやっと下の写真のように全体が撮影できるくらいです。 聖ヴィート大聖堂は多くのボヘミア王の墓を有するチェコで最も大きな教会です。10世紀にボヘミア公ヴァーツラフ1世によって建てられた円形建築(ロトンダ)でした。プラハ司教区が置かれ、11世紀にはロマネスク様式のバシリカが同じ場所に建設されました。14世紀からゴシック様式として建築されたのが現在の大聖堂のもととなっています。プラハ司教区は大司教区に格上げされました。 最初のロトンダの時代から守護聖人は聖ヴィートでした。東フランク王からボヘミア公ヴァーツラフ1世に「聖ヴィートの腕」を与えられたことによります。9世紀に拠点をプラハに移したボジヴォイ1世はプシェミスル朝の最初のキリスト教徒でしたが、10世紀当時はまだ民衆がキリスト教に改宗しつつある時代で、11世紀まではプラハ内にもキリスト教徒と非キリスト教徒が共存していました。そのためスラヴの太陽神スヴァンテヴィトに似た響きの聖人を選んだとも言われているそうです。 聖ヴィート大聖堂の地下にはルクセンブルク朝のカレル4世、その子ヴァーツラフ4世、ハプスブルク朝のルドルフ2世など代々の王の墓があります。 聖ヴィート大聖堂 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 聖ヴィート大聖堂の西面(修復工事中) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 19世紀末から20世紀初頭にかけてつくられたステンドグラスには、オーストリア帝国領だったモラヴィア(現在のチェコ)生まれのアルフォンス・ミュシャ(ムハ)によるものもあります(下の写真)。ミュシャは挿絵、ポスター、カレンダーなどの女性を描いた作品の他、スラヴ民族の伝承・神話を描いた20の大作「スラヴ叙事詩」でも知られています。(スラヴ叙事詩は確かスペインを訪れた時に特別展で見たと思います。見た場所はうろ覚えですが、スラヴ叙事詩はその迫力に圧倒されたことを覚えています。日本でも2017年の3〜6月に全20作が国立新美術館で展示されていたようです。) 聖ヴィート大聖堂のミュシャによるステンドグラス 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 城内の建物内はチケットを購入して入ります。下の写真はチケットの裏面で、聖ヴィート大聖堂だけは時間指定されています。そこで、「プラハ城についての展示」、「旧王宮」、「黄金小路」、「ロジュンベルク宮殿」、「聖ヴィート大聖堂」の順番にまわることにしました。(実際には下記のとおり他の建物等も見学しました。) チケット 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下の写真は約2トンの銀を使って18世紀のはじめに作られた聖ヤン・ネポムツキーの棺です。上に見える聖ヤン・ネポムツキー像のすぐ下にあるのが棺で下から天使の像で支えられています。 聖ヤン・ネポムツキーはネポムクの聖ヨハネとも呼ばれています。南ボヘミア(現在のチェコの南部で、現在のオーストリア北部に接している地域)のネポムク出身の14世紀のプラハの司祭(後にプラハ大司教代理)で、王を怒らせたため拷問を受けて殉教しカレル橋から投げ捨てられました。18世紀に列聖された聖人です。水難庇護者として橋の守護聖人として崇敬されています(参考)。オーストリアのハルシュタットにも聖ネポムクの像がありました。 聖ヤン・ネポムツキーの棺 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■旧王宮旧王宮の中には各箇所に詳細な説明板があります。下はハプスブルク家統治時代に、大司教がプロテスタント教会を閉鎖したことにより政府高官と書記が2階から投げ捨てられたことで有名な逸話の窓です。チェコにおける民族運動としても評価されている事件です。第二次プラハ上窓外放出事件の説明 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下の写真のヴラチスラフホールは16世紀に完成し、当時はヨーロッパ最大のホールでした。戴冠式などの国家的な行事に利用され、1934年からは大統領選挙がここで行われています。聖ヴァーツラフの父親がヴラチスラフ1世です。 ヴラチスラフホール 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 聖ヴァーツラフの王冠のレプリカ等も展示されています。11代目のボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝としては4世)がこの王冠をチェコの支配権の象徴として定め、「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」が成立し、その後のチェコの礎となっています。王冠等は戴冠式に用いられました。 聖ヴァーツラフ王冠、王笏および王の林檎のレプリカ等 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■聖イジー教会聖ヴィート大聖堂の前の中庭には聖イジー像があります。聖イジーとは古代ローマ末期の殉教者(聖ゲオルギオス)でドラゴン退治の伝説で有名です。下の写真の像では馬の脚の下に退治された竜がいるのがわかります。聖ヴィート大聖堂の東に聖イジー教会があります。聖イジー像 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下が聖イジー教会の正面です。聖イジー教会は902年に建てられた城内最古の現存する教会で、973年には修道院が増築されました。現在のものは火事のあと1142年に再建されたものです。 聖イジー教会 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下の写真は聖イジー教会の内部です。正面下の右寄りにある家のような形をしたものは聖ヴァーツラフの父親であるヴラチスラフ公の棺です。この聖堂には初代ボヘミア公のボジヴォイ1世の王妃ルドミラや地下に歴代プシェミスル朝の国王が葬られています。 下の写真の正面の下側に地下室におりる階段があり見学することができます。また脇の通路には発掘した時の写真等の記録が展示されていました。 聖イジー教会内部 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■黄金小路・ダリボルカ聖イジー教会を出てさらに東に向かった路の北側に「黄金小路」があります。入口にはゲートがありチケットが必要です。下の写真のように大変賑わっていました。黄金小路は1597年に出来たもので、番兵などが住んでいましたが、その一画(城壁の下に、とも)に金細工師が住むようになり、そのため黄金小路と呼ばれるようになったとも言われています。左側の手前の建物には長い通路に中世の武具や衣装等が展示されており、左側奥の建物は現在は当時の様子の展示等があります。またプラハ生まれのユダヤ人作家フランツ・カフカが一時、仕事場として使っていた建物もあり、現在はカフカに敬意を払い本屋となっています。 黄金小路 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 黄金小路の盾(左)と鎧(右)の展示 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 黄金小路の東側の階段を降りて城郭の最東端に出ると、ダリボルカという塔があります。中世には牢獄として使われており、拷問に使われた道具などが展示されていました。 塔の名前は15世紀末に投獄された騎士ダリボルに由来しています。ダリボルはボヘミア王とハンガリー王を兼ねたウラースロー2世の時代に、虐げられた人々を救うため反乱に参加しました。フス派とカトリックの争いが終息した直後くらいの時期でしょうか。チェコの作曲家ベドルジハ・スメタナはこれを題材としてオペラを作っています。 ダリボルカの牢獄の中 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■ロジュンベルク宮殿城内の路を西に戻ります。左手(南側)には、東から順にロブコヴィツ宮殿、ロジュンベルク宮殿と並んでいます。ロブコヴィツ宮殿には有力貴族ロブコヴィツ家の所蔵品が展示されています。中庭にはオープンカフェがあり、ここで軽食をいただき休憩しました。ロジュンベルク宮殿は1545年にロジュンベルク家によって建てられたルネッサンス形式の屋敷です。当時はハプスブルク家がボヘミア王位、ハンガリー王位を継承し、いわゆる「ハプスブルク帝国」が成立した後の時期でした。礼拝堂の天井にはフレスコ画があり、床に設置された鏡をつかって上を見上げることなく観賞できるようになっています。邸内には多くの展示物があります。 ロジュンベルク宮殿は17世紀初頭にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のものとなり、18世紀中頃には女帝マリア・テレジア(オーストリア女大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王)により改修され未婚女性の貴族を保護し教育するための施設となりました。 ロジュンベルク宮殿のフレスコ画 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 プラハ城を出てフラッドチャニの丘の西側にあるロレッタ教会に向かいます。 参考、出典: *1 ハラルド・サルフェルナー、「プラハ 黄金の都」 *2 薩摩秀登、「物語 チェコの歴史」 *3 薩摩秀登、「図説 チェコとスロヴァキア」 つづく |