チェコ・スロヴァキア・ハンガリー短訪 チェコ・ユダヤ人地区 鷹取敦 掲載月日:2018年12月26日
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■ユダヤ人地区プラハにユダヤ人が最初に姿を現したのは、プシェミスル朝によりチェコ(ボヘミア)が成立した頃と言われています。11世紀にはドイツなど西から移り住んで北ユダヤ人による最初のユダヤ人居住区が成立し、金融業や商業などを営んでいました。ユダヤ人の居住区は、第1回十字軍による破壊や大火などにより何度も場所が変わった後、現在の場所となりました。ヨーロッパの他の地域と同様、キリスト教徒の宗教的熱狂や債権者であるユダヤ人に対する反感による襲撃はありましたが、それでもチェコやモラヴィアやドイツ、フランスと比べれば相対的に安全な場所でした。そのため中世後期にヨーロッパ各地からユダヤ人が追放された際には、ポーランド、チェコ、モラヴィアなどに安全な場所として移り住んだようです。 ヨーロッパにおけるユダヤ人への迫害は、宗教的な理由や金融業や商売を営んだりしていたことから経済的な理由、そして宮廷ユダヤ人として特権を得ていたことなどによるものでした。しかし近代になり国民国家が成立した後、自らの国を持たないユダヤ人は政治的な目的をもって迫害されるようになります。ナチスドイツによる凄惨な迫害がその典型でした。 下の写真はピンカス・シナゴーグにある地図です(ダビデの星印:旧新シナゴーグ、1:マイゼル・シナゴーグ、2:ピンカス・シナゴーグ、3:旧ユダヤ人墓地、4:クラウセン・シナゴーグ、5:儀式の家、6:スペイン・シナゴーグ)。ピンカス・シナゴーグでチケットを購入し、旧ユダヤ人墓地や複数のシナゴーグを見学しました。 ユダヤ人地区の地図(ピンカス・シナゴーグにて) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 なお、シナゴーグとはユダヤ教の施設でキリスト教の教会に相当するもので、聖書には「会堂」という名称で登場します。キリスト教はユダヤ教から生まれ、シナゴーグは教会の前身にあたりますが、宗教的な行事だけでなくコミュニティーの中心的存在であるなど役割は少し異なります。ユダヤ教にはかつて宗教的施設としてエルサレム神殿がありましたが、ローマ帝国との戦争(ユダヤ戦争)によって破壊されて以来、シナゴーグが宗教生活の中心の場となりました。なお、エルサレムの「嘆きの壁」は破壊されたエルサレム神殿の一部です。 ■ピンカス・シナゴーグ最初にピンカス・シナゴーグを見学しました。ピンカス・シナゴーグは旧ユダヤ人墓地の南側に隣接しており、旧新シナゴーグの次に古い15世紀後半に建てられたシナゴーグです。名前はシナゴーグを建てたラビ(律法学者)ピンカスに因んでいます。なお、ラビ(律法学者)はキリスト教の司祭にあたると説明されることが多いようですが、もともとは聖書と口伝律法の解説者であり聖職者ではありませんでした。中世になって教師、説教者という性格をもつようになり祭式も司ります。 ちなみにイスラム教には現代に到るまで聖職者は存在せず、ウラマー(イスラム法学者)がムハンマドが紙から受けた啓示をまとめた聖典コーラン(クルアーン)や、ムハンマドの言行録であるハディース、伝承等を解釈して、現実の問題に当てはめる(ファトワー)役割を果たしています。ラビのもともとの役割と似ていますね。 ピンカス・シナゴーグ 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下の写真はステンドグラスです。キリスト教の教会は宗教画等、カラフルな装飾がありますが、ユダヤ教のシナゴーグやイスラム教のモスクにはそのようなものは見られません。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ともに同じルーツ持ち(同じ聖典を共有し、同じ神を信仰し)、同じく偶像崇拝は禁じられていますが、ユダヤ教、イスラム教ではより厳格に守られているようです。 建物の様式が少しキリスト教の教会に似ていますね。後で訪れるシナゴーグはもっと教会風な作りになっていました。これはキリスト教の教会のルーツがユダヤ教のシナゴーグだからという理由ではなく、キリスト教徒が多数派のヨーロッパ社会にユダヤ教徒が受け入れられるよう、キリスト教の教会に似せて作られるようになってきたためだそうです。 ピンカス・シナゴーグのステンドグラス 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 シナゴーグ内部の壁面にはナチスドイツによって殺されたユダヤ人8万人の名前と死亡した年月日、場所がびっしりと書き連ねられています。また当時の写真、絵、遺物等の展示のある博物館にもなっています。 ナチスドイツの犠牲者の名前 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 なお男性の見学者には下の写真のような紙でできた簡易な帽子を渡されます。これはユダヤ教徒の男子がかぶるキッパーと呼ばれる帽子で、ユダヤ教の聖所に入るときには男子はこれを被ります。シナゴーグやエルサレムの嘆きの壁などでは観光客向けにこのような紙製のキッパーが用意されているそうです。 帽子(キッパー) 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■旧ユダヤ人墓地ピンカス・シナゴーグを出て、隣接した旧ユダヤ人墓地の中の小道を歩いて見学しました。ここはヨーロッパ最大のユダヤ人墓地で1万2千もの墓石があります。15世紀前半から墓地としての役割を果たしていましたが、1787年の埋葬を最後に廃止されました。マリア・テレジアの嫡男ヨーゼフ2世により衛生面の理由から街壁の内側への埋葬が3年前より禁止されていたことによるものでした。旧ユダヤ人墓地 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■旧新シナゴーグ旧ユダヤ人墓地を出て少し東に行ったところに旧新シナゴーグがあります。旧新シナゴーグは、1270年頃に建てられたヨーロッパ最古のシナゴーグです。ボヘミア王オタカル2世の治世の頃で、プシェミスル朝が支配領域を大きく広げ、選帝侯に名を連ねることになった時期でしょうか。神聖ローマ皇帝が空位となり、オタカル2世が最有力候補となっていた頃でもあります。この後、弱小貴族であったハプスブルク家のルドルフが皇帝に選ばれ、オタカル2世は皇帝ルドルフとの戦いに敗れ戦死することになります。 創建当時は新シナゴーグ、あるいは大シナゴーグと呼ばれていましたが、16世紀に、新しいシナゴーグが建てられたため、旧「新シナゴーグ」になったというわけです。 旧新シナゴーグ 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 旧新シナゴーグは現在も礼拝に使われているそうです。16世紀の偉大なラビ(律法学者)が使ったとされる椅子(下の写真の奥中央右寄りに小さく見えるもの?)があります。 旧新シナゴーグの内部 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 ■スペイン・シナゴーグ旧新シナゴーグからさらに東に進むとスペイン・シナゴーグがあります。現在の建物は古いシナゴーグがあった場所に1868年に建て直されたものです。スペインのアルハンブラ宮殿に似ていることからその名前がつけられました。なお、スペイン・シナゴーグのすぐ隣にはフランツ・カフカの像があります。服だけの大きな(透明な?)男が小さな男を肩車している像です。2003年にカフカの生誕120周年を記念してチェコのカフカ協会が設置しました。 フランツ・カフカの像 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下の写真はスペイン・シナゴーグの礼拝堂です。1階の前方には祭壇があり、祭壇に向かってキリスト教の教会のように椅子がならんでいます。写真の左側にみえるように二階席があります。集会の時には男性は1階、女性は2階に座るそうです。 スペイン・シナゴーグの礼拝堂 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 下は祭壇です。上の写真では手ぶれでよく分かりませんが、下を見ると緻密な美しい幾何学模様の造形であることが分かります。下の写真には写っていませんが、天井のドームからはダビデの星(六芒星の形)の燭台がぶら下がっています。祭壇の上部や壁面の模様にもダビデの星の模様があります。 ダビデの星はユダヤ民族、ユダヤ教の象徴で、古代イスラエルの2代目の王であるダビデに由来しているとされていますが、実際には17世紀に起源があり、歴史上のダビデ王とは関係はないようです。 スペイン・シナゴーグの祭壇 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900 参考、出典: *1 ハラルド・サルフェルナー、「プラハ 黄金の都」 つづく |