シルクロードの今を征く Now on the Silk Road シリアの世界遺産3-2 パルミラ(1980年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニュー(西アジア) シリアの世界遺産 世界遺産1 世界遺産2 世界遺産2-2 世界遺産3 世界遺産3-2 世界遺産4 世界遺産4-2 世界遺産5 世界遺産6 次はシリアの世界遺産3-2です。 ◆パルミラ パルミラ王国 212年、サーサーン朝(ペルシア)が衰退するパルティアを圧迫し、チグリス川およびユーフラテス川の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになりました。 パルミラの長官セプティミウス・ヘロドの息子、セプティミウス・オダエナトゥスは皇帝ウァレリアヌス(在位253 - 260年)からシリア属州総督に任命されました。260年にウァレリアヌス帝がサーサーン朝との戦いで捕らえられ、虜囚となったままビシャプールで死ぬと、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、クテシフォンにも2度侵攻しました。 オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態にありましたが、267年にオダエナトゥスが甥に殺されると、妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを擁立してパルミラの実権を握りました。 ゼノビアは哲学者カッシウス・ロンギヌス(en)を顧問に迎え、アラビア・ペトラエアの州都ボスラを征服し、さらにはアエギュプトゥス(エジプト属州)へも遠征して領土を拡大しました。 北にある大都市アンティオキアも奪おうとしていたゼノビアは、273年に皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270 - 275年)の親征を受けて敗北し、捕らえられローマに送られました。虜囚となったゼノビアはローマ近郊のティヴォリに邸宅を持つことを許されて華やかな余生を送りましたが、パルミラの街は破壊され、ロンギヌスらパルミラ政府の高官は殺されました。 ローマ帝国は以後、パルミラをローマ軍団の基地に変えてしまいました。ディオクレティアヌス帝の時代には、ペルシアの侵攻に備えてさらに多くの部隊が駐留できるよう規模が拡大され、城壁で囲まれました。 アラブ砦から見下ろしたパルミラ遺跡。列柱道路の先、オアシスの手前に大きなベル神殿がある。 Eustache Diemert - 投稿者自身による作品, CC 表示 1.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons パルミラ遺跡の隣にある、現代のタドモルの街 Bernard Gagnon - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons ローマ以後 東ローマ帝国の時代、パルミラに新たに建設されたのはいくらかのキリスト教会のみで、市街の大半は廃墟のまま放置されていました。6世紀、遺跡とオアシスを見下ろす丘の上に砦が建設されています。634年、最初のムスリム(イスラム教徒)がパルミラにたどり着き、次いで636年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム帝国の正統カリフ軍がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となりました。 800年ごろから数少ない住民もパルミラを去り始め、1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄されました。カトリック教会は現在も、パルミラに名義司教を残しています。 1751年、イギリスの探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、1753年にはその報告書を出版しました。これはローマ建築の研究およびその後のヨーロッパの古典主義建築の発展に大きな影響を与えました。 シリア共和国の独立後はホムス県に属し、タドモルの街が遺跡の隣にあります。 ISILによる破壊 シリア内戦下の2015年5月21日、カリフ制によるイスラム過激派組織ISIL (ISIS) がシリア軍を撃破して市街地を制圧、遺跡も同組織の支配下に置かれました。 その際、遺跡の保護に携わっていた専門家ハレド・アサドを斬首し、8月にはバール・シャミン、ベル両神殿を相次いで破壊しました。ハレド・アサドは、遺跡に眠ると噂されていた金塊捜索への協力を拒否したため殺害されました。2015年10月4日にはシリアの文化財保護当局が、地元の目撃者らの話として凱旋門が爆破されたことを伝えました。 ロシア空軍による航空支援を得てシリア軍が交戦していましたが、2016年3月27日、シリア国営テレビは、ISILからパルミラ全域を奪還したと報じました。 シリア側は、「5年以内の修復が可能」との見解を示しましたが、ユネスコ側は「虚偽の報道で修復は不可能」と反論し、修復支援を全面拒否する意向を示しました。 2016年12月11日、パルミラはISILに再び制圧されました。 2017年3月2日、シリア国営テレビは、シリア軍がISILから再びパルミラ全域を奪還したと発表しました。 その後、ハレド・アサドの三男(元パルミラ博物館職員)やシリア政府の文化財・博物館局が、日本人考古学者などの協力を得ながら遺跡修復を図っています。 主な建築物 ベル神殿(本殿)。ベル神を祀っていた。 CC 表示-継承 3.0, リンク Source:Wikimedia Commons ベル神殿 パルミラで最も目を引く建築物は、「中東において紀元前1世紀の最も重要な宗教的建造物」とされているバアル(ベル)の大神殿です。 石材の断片だけが残存する神殿は、ヘレニズムの神殿として始まります。中央の聖堂(内陣)は、コリント様式の巨大な二重列柱廊に続き、紀元1世紀初頭に追加されました。 西のポルチコ(柱廊)とその入口(プロピュライア)は2世紀からです。神殿は205 × 210メートルにおよびます。 パルミラの列柱道路。ローマの植民都市や軍営の都市計画で、東西に貫く通りはデクマヌスと呼ばれたが、中でも最も主となる大通り(都市軸)はデクマヌス・マクシムスと呼ばれた。 CC 表示-継承 3.0, リンク Source:Wikimedia Commons ディオクレティアヌス城砦(手前の列柱)。奥の山の上にあるのは、マムルーク朝が13世紀に建て、17世紀にドルーズ派のマアーン家の領主ファフル・アッ=ディーン2世(英語版)が拡充したファフルッディーン城(カラート・イブン・マアーン) --Ulrich Waack 13:33, 28. Nov. 2010 (CET) - 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons 列柱道路 神殿から始まるパルミラの列柱道路は、古代都市の残る部分に通ずる古代のデクマヌスに相当します。列柱道路には、華麗な装飾が施された記念門(3世紀初頭のセプティミウス・セウェルスの治世にさかのぼる)があります。 遺跡の第一区域の端には、大部分が復元された4塔門建築 (tetrapylon) である四面門があり、4つの基壇に各4組の柱を備える(エジプトの花崗岩でできた元来の柱のうち1本だけが今も見られます)。 ディオクレティアヌスの浴場 記念門から少し離れて、ディオクレティアヌスの浴場といわれる浴場と、ナブー(ナボ)神殿が現在に残っています。 ローマ劇場 現在のパルミラに残るローマ劇場は、9列の座席を持っています。元来は木造の建築物が付け足されておそらく12列までありました。劇場は紀元1世紀初頭の時代のものとされています。 ローマ劇場の後方には、地元貴族が法を議論し、政治的決定を行なった小さな元老院の建物、また、キャラバンが支払をする場所であったことを示唆する碑文があるいわゆる「関税所」が位置します。 すぐ近くには大きなアゴラ (48 × 71m) が、宴会場(トリクリニウム)の遺構とともにあります。アゴラの入口は、セプティミウス・セウェルスと彼の家族の像が飾られていました。 ディオクレティアヌス城砦 横軸となる通りは、シリアの統治者ソシアヌス・ヒエロクレスによって築かれたディオクレティアヌス城砦へとつながり]、中央に大きな principia (軍隊の本営を収容する広間)の遺構があります。近くにはシリアの女神アラートの神殿(西暦2世紀)があります。 ディオクレティアヌス城砦のそばのダマスカス門とバール=シャミン神殿は西暦17年に建立され、後にオダエナトゥスの統治下で拡大しました。遺構には内陣 (cella) へと通じる注目すべきポルチコ(柱廊玄関)があります。 写真ギャラリー パルミラの地下墳墓群から見つかった胸像。ローマ時代のパルミラでは、墓室の内壁に故人の胸像を安置していた。 不明 - PHGCOM (2005), CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons パルミラのローマ劇場 英語版ウィキペディアのZelediさん - 投稿者自身による作品; Uploaded to en.wikipedia 07:39, 9 Apr 2005 by en:User:Zeledi, CC 表示-継承 3.0, リンクによる Source:Wikimedia Commons パルミラの東の入口、記念門。 Heretiq - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 2.5, リンクによる Source:Wikimedia Commons 世界遺産 登録基準 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用です)。 (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 危機遺産 シリア内戦による保全状況の悪化を理由に、他のシリアの世界遺産とともに危機遺産リストに加えられた。2世紀ごろの建造とされる凱旋門のアーチは崩落している。[24] 世界遺産4へつづく |