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パキスタン

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月2020年7月31日公表予定
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 次はパキスタン1です。

パキスタン1 (Pakistan)



 パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اسلامی جمہوریہ پاکِستان‎)、通称パキスタンは、南アジアに位置する共和制国家です。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチです。

 面積は80万km2で日本(38万km2)の約2倍程。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の75%以上が住み、インダス文明に遡る古い歴史があり、人口の増加が著しい国の一つです。イギリス連邦加盟国です。

国名

 正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاکِستان(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)です。

 公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistanです。

 日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。

語源

 国名「パキスタン」は、ウルドゥー語とペルシア語で「清浄な国」を意味します。پاک(パーク)が「清浄な」の意味です。接尾語ـستان (スターン)は、ペルシャ語で「〜の場所」を意味し、サンスクリットのस्थान(スターナ)と同語源です。

 パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム(イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリーによる1933年の小冊子『パキスタン宣言』の中で初めて使われたものである[6]。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANから"Pakstan"(パクスタン)としていたが[7][8][9]、後に、発音しやすくするために"i"が加えられて"Pakistan"(パキスタン)となりましました。

国名の変遷

 1947年 - 1956年:パキスタン
 1956年 - 1958年:パキスタン・イスラム共和国
 1962年 - 1973年:パキスタン共和国
 1973年 - 現在:パキスタン・イスラム共和国

歴史


インド・パキスタン分離独立
投稿者自身による作品 - このファイルの派生元: Hyderabad in India (1951).svgKalat Map.gifSaurashtraKart.jpg, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source: Wikimedia Commons


 19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものでした。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上しました。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなりましました。

 しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなりましました。

独立と印パ戦争

 1947年8月14日 イギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂くドミニオン(英連邦王国パキスタン)となります。1947年 第一次印パ戦争(1947年10月21日 - 1948年12月31日)。1951年10月16日、en:Liaquat Ali Khan首相が暗殺されました。

 1956年、共和制移行。1958年の軍事クーデタで(en:1958 Pakistani coup d'état)、アイユーブ・ハーン(Ayub Khan)の独裁政権が誕生。第二次印パ戦争(1965年8月 - 9月23日)。1970年11月、東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立しました。

  1972年、イギリス連邦脱退。パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任しました。1975年、バングラデシュ大統領のムジブル・ラフマンが暗殺されました。 1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりズルフィカール・アリー・ブットーが職を追われ、後に処刑されました。

アフガニスタン紛争と核開発

 1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始しました。

 アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生しました。

 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死しました。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出されました。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任されました。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われました。

 1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を実施しました。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課しました。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争に発展し、核兵器の実戦使用が懸念されました。

ムシャラフ大統領時代


パルヴェーズ・ムシャラフ
Helene C. Stikkel - http://www.defenselink.mil/photos/newsphoto.aspx?newsphotoid=3849; 020213-D-2987S-057, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 1999年10月12日の無血クーデターでナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りしました。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰しました。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされました。
 
 2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生しました。同年10月にはパキスタン大統領選挙が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所のイフティカル・ムハンマド・チョードリーと対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。

 ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表しました。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件)。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止されました。
 
 2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約しました。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙)。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保されました。

 342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられます。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われました。因みに、上院は100議席で、州議会議員等による間接選挙で選出されました。

 総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟です。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがあります。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出しました。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明しました。

ザルダーリー大統領時代

 2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出されました。 2010年、パキスタン水害(en:2010 Pakistan floods)。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになりました。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げています。

 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認されました。 11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡しました。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた[11][12]。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し[13]、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフが就任しました。

2013年5月13日のパキスタン下院総選挙でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に就任。

政治・外交


国会議事堂
Usman.pg - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
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首相官邸
Shubert Ciencia from Nueva Ecija, Philippines - Flickr, CC 表示 2.0, リンクによる
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パキスタン最高裁判所
ImposterVT - https://www.flickr.com/photos/titus4/12529678/, CC 表示 2.0, リンクによる
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国内政治

 連邦共和制。4つの州と連邦首都イスラマバード及び連邦直轄地から成る連邦国家。インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定です。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強いと言えます。

 パキスタン憲法は、連邦直轄部族地域では大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨規定しており、部族地域は強い自治権を有しています。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習法が適用されています。


パキスタン2つづく