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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

楼蘭(ローラン)故城遺跡3

(中国新疆ウイグル自治区)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次は新疆ウイグル自治区東部のローランです。

◆楼蘭故国遺跡3(新疆ウイグル自治区)

楼蘭の位置

 楼蘭の名は史料や時代によって異なる用いられ方をしました。楼蘭はオアシス都市の名でしたが、その国名が漢によって鄯善国と改められた後も、楼蘭の名はその「地方」を現す語として、あるいは西域の象徴的な地名として使用された用例が存在します。また鄯善国内で作られた漢文文書の中には楼蘭の名を継続使用しているものもあります。

 楼蘭時代の遺跡が探検家スヴェン・ヘディンやオーレル・スタインらの活動によって発見され、発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された漢文文書の分析によってスタインがL.Aと名づけた都市遺跡が楼蘭の王城であるという説が唱えられました。

 この説は現在でも重要であり、書籍などで便宜上L.A遺跡を指して「楼蘭」、「楼蘭遺跡」、「楼蘭故城」などと呼ぶことにするという扱いをする研究者もいます。しかし、L.A遺跡は3世紀頃に形成された都市であり、少なくとも前漢代の記録に登場する「楼蘭」とは同一でないともいわれています。楼蘭王国の王都としての楼蘭の位置は未だ諸説入り乱れる分野です。

楼蘭の名称

 楼蘭という漢字表記は、現地名であるクロライナ(クロラインナ、Kroraina、Kroraimna)の音訳です。3世紀のカローシュティー文字文書では、王都を意味する語として用いられており、元来都市の名であったものが国全体を指す語として用いられるようになった後も、王都を指す語として継続使用されていたことが知られています。一説にはその原名はインドの地名に由来するとも言われています。

 一方漢によって命名された鄯善国という名前は、一説には漢にとって「善い国」という意味で「善善」とし、同じ字が続くのを避けるために新字を作って「鄯善国」としたといわれています。または楼蘭の南部を流れたチェルチェン河(チェルチェン・ダリヤ)の名をとったものであるともいわれています。

王城の名称

 この楼蘭(クロライナ)とは別には、王都を指す言葉として?泥という言葉がありました。『漢書』などでは鄯善国の首都としてこの名を用いています。これはカローシュティー文字文書に登場するクヴァニ(クハニ Kuvani, Kuhani)の音訳であると考えられ、城砦を意味する語が王都の意味に転用されて用いられたものです。また、カローシュティ文字文書の中にはマハームタ・ナガラ(Mahamta Nagara)という言葉で王都を呼んでいるものもあります。これは「大きな都市」を意味する語であり、やはり後に王城を意味する語として転用されました。

国制

 楼蘭の国制に関する知見はその多くをカローシュティー文字文書や現地で作成された漢文文書に依存しています。こういった文書類が多く見つかっているのは主に3世紀頃であるため、この時代についての研究が進んでいます。以下に述べる国制の概要も基本的には3世紀の記録に基づいて復元されています。

中央

 楼蘭はその記録が残る全時代を通じて国王を頂点とする国家でした。しかし、国王の権力がどの程度強力なものであったのか、又は制約されていたのかはまだ不明な点が多いようです。少なくとも現存する史料からは、高位役人の人事権を国王が掌握していたらしいことがうかがわれます。

 王妃はしばしば周辺国との政略結婚によって楼蘭王と結婚しました。漢から宮女が与えられて楼蘭王の妻となったことが『漢書』に記録されている他、3世紀頃には隣国の于闐(ホータン、またはコータンナ)の王女が王妃として迎えられていました。于?国と鄯善国は国境を巡って争っていましたが、一方で鄯善国王妃となった于?の王女が、故郷へ里帰りした事なども記録にのこっており、当時の外交交渉の複雑さを今に伝えています。

婼羌

 中央政府の官制は『漢書』西域伝には鄯善国王を頂点として輔国公、郤胡公、?善都尉、撃車師都尉、左右且渠、撃車師君、訳長という官名が記録されています。この時期の官職を知る事の出来る現地史料は乏しく、詳細は不明ですが、3世紀の官職についてはカローシュティー文字文書類からかなり詳細に知る事が出来きます。そこからわかる楼蘭の官僚機構は『漢書』西域伝の記録よりも遥かに複雑ですが、時代の開きがあるため単純比較は難しいと言えます。

 3世紀の楼蘭(鄯善国)には、大王(マハーラーヤ Maharaya)の下で最も高位の役人としてキツァイツァ(Kitsaitsa)がいた。キツァイツァ職にある者の署名は各種の公文書に必ず存在し、各種の裁判で判決を下していた事が知られています。

 キツァイツァに次ぐ高位官職としてカラ(Kala)があり、この役職には王子(マハーラーヤプトラ Maharayaputra)がついていました。一説には王子の称号ではないかともいわれています。他にオグ(Ogu)、グスラ(Gusura)、キュヴァライナ(Cuvalayina)などの役職があり、これらの職権などについては未だ不明点が多いものの、各州の長官よりも上位に置かれる高級官吏でした。こういった高級官吏には、王から荘園(キルメ Kilme)が与えられ、彼らはそこから得られる収入で生計を立てていました。

地方

 楼蘭(鄯善国)の地方統治については、文書史料が多く出土しているチャドータ(精絶)についてのものが良く知られています。チャドータには、地方長官(チョジボー Cojhbo)が置かれました。チョジボーの任免権は基本的には国王にあったと考えられています。

 3世紀のチャドータの長官ソームジャカに当てた王の命令書などが多数出土しており、その中には「大王はチャドータの全権をソームジャカに与えたのであり、何人もソームジャカに背いてはならない。」と記したものもあり、地方長官(チョジボー)が、担当地域の全権を握っていたと考えられあす。王の使者の護衛等は各地方の長官が、それぞれの担当地域内で受け持ち、責任を持っていました。

 各州に対し王はダルマ(法)に基づいた決定を行うよう度々指示を出していますが、ここでいうダルマとは各州の伝統的な慣習に基づいたものであったと言われ、特に民事事件に関しては領域内に必ずしも統一した法律のようなものは制定されなかったと考えられます。

 チョジボーの下にはトームガ(Tomga)、アプス(Apsu)、ソータムガ(Sothamga)、タスチャ(Tasuca)、ヴルヤガ(Vuryaga)、チャムクラ(Camkura)等の役人がいました。この中でもソータムガ(徴税官)はしばしばチョジボーと並んで文書に登場し、重要な役人であったと考えられています。他に、徴税に携わる役職がいくつもありましった。

税制

 カローシュティー文字文書の中には徴税に関する文書が数多く含まれている。鄯善国(楼蘭)が支配した各地方の長官(チョジボー)に対して国王が徴税を命じる文書や、税の着服を非難する文書などです。地方長官は、配下の徴税官(ソータムガ)を使ってその担当地域から税を徴収しました。

 税は物納が基本であり、穀物、ワイン、ラクダ、ウマゴヤシ、バター、羊、フェルト、カーペットなど様々な種類の物品が徴収されました。こうした税として集められる物品は20種類を超えています。最も主要な税は穀物とワインであり、それぞれ都市の役所などに一旦集められた後、機を見て中央へと送付されました。

 ラクダ税は、国の使節や駅伝のためのラクダの供出でした。これには借り賃が支払われたが庸役の一種であったと考えられています。また各地で徴収された税はラクダを使って中央に運ばれたため、ラクダの飼料としてウマゴヤシが徴収されたのです。

 各オアシスはナガラ(都市 Nagara)とアヴァナ(村 Avana)によって構成され、ナガラとアヴァナは更にサダ(百戸 Sada)とプラデサム(地方 Pradesam)などに細分されていました。これが徴税の最小区分であり、納税額の計算はこれらを基礎として行われました。また税の徴収は王領(ラージャデー rajade)と荘園(キルメ Kilme)とで別々に行われていましたが、詳細はよくわかっていません。

 こういった徴税の処理において最も問題となるのが、役人による横領や着服、未納、そして輸送中の略奪被害などでした。現存する税務文書の殆どが滞納に対する督促状や、着服した官吏の罷免を命令する文書などであることは、こういった問題に当時の?善国(楼蘭)中央政府が如何に苦慮したかを現代に伝えます。税の未納が発覚すれば基本的には未納分全てが徴収対象となりました。

宗教

 楼蘭は早い段階から仏教の強い影響を受けていました。楼蘭の仏教についての知見も、やはりカローシュティー文字文書が多数出土する3世紀の事情がよく知られています。3世紀の楼蘭(鄯善国)の仏教は極めて組織化されていた。僧団(サンガ)は楼蘭支配下の各オアシス毎に設立されていましたが、これらは中央の大僧団によって統制されていました。

 このことはマヒリ王治世下で首都の僧団がチャドータ(精絶)の僧団の風紀が乱れていることを叱責し、新たな規則を定める文書が出土していることから知られています。チャドータ以外の事情についてはあまり知られていませんが、チャドータに関する限り、仏僧の風紀の乱れがしばしば問題になっていたようです。400年に楼蘭を訪れた中国の僧侶法顕は、鄯善国に4000人の僧侶がおり、悉く小乗を学んでいたと記しています。この時代の楼蘭は既に全盛期を過ぎており、3世紀には更に規模の大きかった可能性もありまあす。

 楼蘭の領域各地からは夥しい数の仏教遺物が出土しています。チャドータやミーランなどからはストゥーパや仏教壁画、仏像が発見されました。これらの中には若干のヘレニズムの影響が見られるものも存在し、また絵の製作者の名前と報酬額が記された文書も発見されました。その製作者の中にローマ風の名前であるティタサ(ティトゥス)が発見されたことは、楼蘭に見られるヘレニズムの影響と相まって興味深いものです。

 仏教以外の痕跡として、アテナやエロス、ヘラクレス像を刻印した封泥も発見されています。スタインらはこうした楼蘭に見られるグレコ・ローマン風やイラン風の美術品を見た感動を記し、「トルキスタンというよりはローマ領シリアや、他のローマ東方領の邸宅跡にいるようだった」と語っていますが、こういった西方の宗教がどの程度楼蘭で一般的であったのかは明らかではありません。

後世の記録と発掘

 李延寿は「北史」の中で、かつての楼蘭として?善について記述していますが、これは都市としてではなく国家としての楼蘭を指しているのであり、その内容は別の都市に関するものであるとする説が強いといえます。

 また、7世紀に玄奘三蔵がインドからの帰途、廃墟となった楼蘭に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているが、これも都市としての楼蘭なのか、あるいはその頃には廃城となった旧鄯善国の別の都市なのか不明です。

中央アジア探検

 近代的な調査は19世紀のヨーロッパ人探検家による調査によって始まります。その始まりは1893年10月から行われたスウェーデンの探検家、ヘディンによる中央アジア探検です。最初の探検では水不足のために一時は探検キャラバンが壊滅し彼自身も死の淵を彷徨うこともあった難旅行でしたが、ヘディンは1897年3月まで西域各地を回りました。そして2度目の探検旅行が1899年6月に開始され、翌1900年3月23日、楼蘭遺跡を偶然発見しました。その翌年彼は楼蘭を再訪し若干の調査を行っています。

 ヘディンの私的な探検旅行とほぼ同時期にタクラマカン砂漠を調査する探検隊がもう1つ存在した。それはイギリス領インド帝国の考古学調査局が派遣したオーレル・スタインが率いる探検隊でした。スタインの探検隊に先立つ1889年にイギリス領インド帝国に勤務していたイギリス軍人バワー大尉は、かつてイギリス人の案内人を務めていたヤルカンドの商人デルグライシュが、カラコルム峠で商売上のトラブルによって殺されたため、その犯人の調査を命令されていました。犯人を追ってクチャまで達したバワー大尉は、そこで現地人が廃墟から拾ってきたという古写本を購入し持ち帰えりました。(蛇足であるがこの時の殺人犯はその後サマルカンドで捕えられた。)

 バワー大尉の持ち帰った古写本を調査したウェーバーや、ヘルンレといった学者達は直ちにこれが価値ある考古学遺物であることを認め、インド政庁に写本の収集を依頼しました。インド政庁はこれを受けて各地で写本の収集を始め、またこの噂を聞いたロシア帝国のカシュガル領事ペトロフスキーも古写本の収集を始めました。そしてこういった古写本の中にそれまでほとんど知られていなかったカローシュティー文字文書が見つかったため、ヨーロッパの学会において中央アジアの探検調査の重要性が認識されるに至りました。

 こうした中でスタインの探検隊も1900年から西域へと派遣され大きな成果を上げました。この時は直接楼蘭の首都は調査していませんが、ニヤの町で現地人イブラヒムが見つけた木簡を見て重要性を認識し、彼の案内でニヤ遺跡(チャドータ 精絶)の調査を行い100枚を超える木簡文書を発見しました。


Wooden Kharosthi document found at Loulan, China by Aurel Stein (L.A. VI ii 0234)
オーレル・スタイン(Aurel Stein)によって中国の楼蘭で発見された木片に刻まれた
カローシュティー文字の文書(L.A. VIii 0234)
Source; Wikimedia Commons

 そしてこの中に楼蘭王が出した命令書を見出したのです。スタインは同時期にヘディンが楼蘭遺跡を発掘していることは全く知りませんでしたが、インドに戻った後この発見を知った彼は2度目の調査を企画し、1906年12月には楼蘭の遺跡を調査し、数多くの古文書を発見しました。

 1908年には日本の大谷探検隊(第2次)が楼蘭を訪れました。西本願寺の大谷光瑞は非常な情熱を持って数次にわたる中央アジア調査を企画し、彼によって派遣された橘瑞超は楼蘭故城を訪れました。この時の調査によって『李柏文書』と呼ばれる有名な文書が発見されています。彼は1911年にもかつての楼蘭王国の領域を訪れて壁画などを収集しました。

 日本の探検隊はその後長く途絶えていましたが、ヘディンやスタインは繰り返し楼蘭の調査を行っています。彼らの調査は当時新しく成立した中華民国政府や文献の国外流出に怒る中国人学者達の強い反対を受けて難航しましたが、全ての調査に中国人を同行させることで同意を取り付けたり、道路建設のための調査依頼を受ける形での調査を行いました。

 こうした苦労に報いるに十分な発見が1934年にヘディンによってなされました。新疆で発生していた回族の反乱のために彼は拘禁されていましたが、偶然にもロプノール地方で灌漑の可能性の調査を命ぜられ現地の調査を行う事ができました。このとき彼は女性のミイラを発見したのです。この発見に興奮した彼はそのミイラに「ロプの女王」と言う名をつけましたが、実際にこのミイラが女王のミイラであったかは分かっていません。


Map of eastern Xinjiang with prehistoric sites and the courses of the Silk Roads by Folke Bergman 1939.
フォルケ・ベリイマン(Folke Bergman)による先史時代の遺跡とシルクロードの経路を含む新疆東部の地図(1939年)。
  Source; Wikimedia Commons


Map of the Lop Nur region, Xinjiang, China mainly after A. Herrmann by Folke Bergman 1935. 1971.  
フォルケ・ベリイマン(Folke Bergman)による先史時代の遺跡とシルクロードの経路を含む新疆東部の地図(1939年)。
  Source; Wikimedia Commons

番組『シルクロード』の取材と中国の調査

 この時の調査以降、第二次世界大戦や国共内戦、更に中国の共産化などのため、暫くの間楼蘭の調査は途絶えました。再び楼蘭に大規模な調査隊が訪れるのは1979年の事です。これは日本のNHKと中国の中央電視台による共同制作番組『シルクロード』の取材によるもので、この時中央電視台の要請によって中国人学者による調査隊が組まれたのです。

 このとき新たに女性のミイラが発見されています。翌年には更に大規模な調査が行われ大きな成果を上げました。この調査では初めて楼蘭の水源も明らかとなっています。その後も大規模な調査が繰り返し行われ、多くの知見が得られています。

 1986年以降は新疆文化庁によって恒常的に調査が行われ、膨大な量の遺物が収集されています。1988年の日中共同調査では早稲田大学教授の長澤和俊やジャーナリストの轡田隆史も楼蘭故城の調査にあたり、外国人としては54年ぶりの楼蘭調査となりました。しかし、現在は外国人による調査がほとんど許可されないため、中国人学者の手によって行われています。

 郊外の観光地としては、カラクリ湖、ウパール村の月曜バザールなどがあります。


textile fragment from Loulan, China.
フォルケ・ベリイマン(Folke Bergman)による先史時代の遺跡とシルクロードの経路を含む新疆東部の地図(1939年)。
Source; Wikimedia Commons


楼蘭・展示1につづく