旧中山道、信州 宿場探訪 軽井沢宿・沓掛宿 (軽井沢町) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda May 15, 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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旧中山道、信州宿場探訪の2日目(2015年5月5日)は、地元の軽井沢宿から昨日最後の探訪となった望月宿の次の宿である八幡宿までを探訪することとしました。 以下が中山道六十九次の宿場リストのうち以下が2日の視察予定の宿場です。
◆軽井沢宿 歌川広重「木曽街道六十九次・軽井澤」 軽井沢宿 出典:中山道六十九次 旧中山道地図 旧街道地図 軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場です。 軽井沢宿は現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯にありました。 軽井沢宿は一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2〜3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当します。 中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場でした。 本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたといいます。 宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所でした。 現在の二手橋 出典:グーグルアース・ストリートビュー 二手橋の位置 出典:グーグルマップ 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人でした。 明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになりました。 多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものはほとんどありません。 軽井沢宿 出典:つるや旅館の歴史より 唯一、往事の面影を少しだけ残しているのは、旧軽井沢にあるつるや旅館周辺です。 出典:グーグルアース・ストリートビュー 出典:グーグルアース、つるや旅館 ◆「つるや」茶屋時代 つるや旅館は、江戸時代初期に、中山道の宿場町軽井沢宿の休泊茶屋、旅籠鶴屋として開業しています。 参勤交代時代の「つるや」は、休泊茶屋を営む旅籠でした。当時は、現在の「つるや旅館」の位置に、間口七間一尺(約13メートル)の店を構えていたのです。街道の際まで長く出張っていたひさしの下と、中の広い土間には縁台がいくつも並んでいました。 上客は奥へ通って鯉料理や「しっぽくそば」で一杯やっていました。 休泊茶屋の飯時は忙しかったようです。峠を上り下りする旅人が、朝昼夕とひっきりなしに立ち寄って、縁台の上のものを立ちながら食べて行きます。 縁台の中程にはお賽銭箱のような大きなけやきの銭箱がすえてありました。旅人は食べ終わると、チャリンと銭を投げ込んでいきます。 銭箱の中には、銭に混じって必ず石ころや茶碗のかけらなどが入っていたそうです。旅用の乏しい旅人がただで食べて行ったのでしょう。 明治に入り、宣教師たちの軽井沢への往来が始まると、つるやは旅館業に転じ、日本風の建物のまま、西洋風な雰囲気を取り入れました。その後、大正には、多くの文人たちが泊まられました。 芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄らが、暖かな雰囲気の中で執筆を行いました。 そして、今、幾度かの改装を重ねながら、軽井沢の昔を今につなぐ旅館として、歴史を守り続けています。 以上、つるや旅館の公式Webより。 出典:グーグルアース、つるや旅館 出典:グーグルアース、つるや旅館 ◆沓掛宿 木曾街道六拾九次 沓掛(渓斎英泉画) 沓掛宿 出典:中山道六十九次 旧中山道地図 旧街道地図 沓掛宿(くつかけしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十九番目の宿場を指します。 現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢にあたります。 古代の長倉牧の跡とされ、1535年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」が初出です。 「沓掛」の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることに由来し、両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて栄えました。 また、草津温泉に向かう分岐路もありました。 さらに甲府藩や小諸藩の領有を経て1716年以後は公儀御料となっています。 1875年に借宿村との合併により長倉村、1889年に軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となりますが、軽井沢が避暑地として著名となったために1923年の町制施行を機会に軽井沢町と改称しました。 この間の1910年に信越本線の沓掛駅が開業します。 しかし1951年の大火で町の殆どを焼失したため、往時の様子を伝えるものは殆ど残っていません。その後は1956年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展しています。 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人でした。 つづく |