旧中山道、信州 宿場探訪 岩村田宿(佐久市) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda May 15, 2015 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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以下が中山道六十九次の宿場リストのうち赤色の部分が岩村田宿です。
◆岩村田宿 岩村田宿(いわむらだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場を指します。 現在の長野県佐久市岩村田一帯です。岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町でした。宿場の本陣は存在しましたが、大破し、その後も再建できず旅籠も最盛期で8軒と少ないものでした。 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、岩村田宿の宿内家数は350軒、旅籠のみ8軒設置され、宿内人口は1,637人でした。 本陣は存在しましたが、大破し、その後も再建できずと岩村田篠澤家文書(寛政7年1759年)に書かれています。 木曾街道六拾九次 岩村田(渓斎英泉画) 岩村田宿 出典:中山道六十九次 旧中山道地図 旧街道地図 街道の交わるところ岩村田宿は江戸から数えて22番目の宿場、内藤氏一万五千石の城下町でした。 往還通りの長さは四十三町四十七間、町並みは九町半です。 かつて鎌倉時代より地の利を生かし、豪族大井氏が東側の高台に居を構え、その頃より栄え、多くの人々が行き来する土地柄でした。 江戸時代になり街道が整備されました。 中山道が北から来て西へ抜け、北西の小諸への街道、南へ下って野沢を経て甲州への街道、東の香坂峠を越え上州の下仁田への街道の分岐点であったため、岩村田宿は米穀の集積地として物資輸送上で大きな役割を果たす要衝地となりました。 岩村田は享保5年になると、市が月に数回開催されました。江戸中期の岩村田宿の中心は荒宿で、中山道に並行する円満寺までののぼり坂です。岩村田宿は城下町であったため、本陣、脇本陣はなく、旅籠が八軒あり、龍雲寺や西念寺が本陣の代わりを勤めました。 かつて地の利を生かした豪族大井氏によって発展した岩村田は、民家6千軒を有し信濃でも有数の都市として発展していきましたが、文明16年(1484年)村上軍の戦火に焼きつくされ廃墟になったと言われております。 その後、戦国時代武田氏の支配下で復活していき江戸時代に中山道の宿駅となり発展していきました。 岩村田宿は小諸への街道、甲州への街道、下仁田への街道の分岐点であったため、交通の要衝地として重要な役割を果たしました。 元禄十六年(1703年)に内藤氏によって岩村田藩が成立しますが、城下町であったため、本陣・脇本陣が設置されず、周辺の寺院が本陣・脇本陣の機能を果たしました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4 岩村田宿の旅籠跡? 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4 岩村田宿の旅籠跡? 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4 つづく |