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旧中山道、信州 宿場探訪

追分宿・泉洞寺

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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信州 宿場探訪 中山道( 軽井沢、沓掛、追分、小田井・岩井田・塩名田・八幡
軽井沢宿・沓掛宿 追分宿・郷土館 本陣跡・高札場 堀辰雄記念館1
堀辰雄記念館2 泉洞寺 追分宿・枡形、分去れ 農業温水路・真楽寺
小田井宿 岩村田宿 塩名田宿1 塩名田宿2
八幡宿

 私達は堀辰雄文学記念館を跡に泉洞寺にゆきました。



 
 次は泉洞寺です。

◆泉洞寺

 泉洞寺は今から約410年前の、慶長3年(1598年)3月、上州(現在の群馬県長野原町)常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創されました。 御開山である心庵宗祥禅師は三河国の人で元は武士です。俗名を林主人といい天正3年(1575)長篠の戦いに遭遇、数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、当時敵方であった武田軍の本陣地、長篠の曹洞宗医王寺にて剃髪し出家をさたといわれています。

 泉洞寺は、寺名「仙洞寺」であったが江戸時代、火災に遭遇したことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して「仙洞寺」から、水を持って寺を守る様にと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願いました。当山の御本尊様は聖観世音菩薩様です。

 本山は大本山
 福井県の「永平寺(えいへいじ)」高祖道元禅師さま御開山
 横浜市の「總持寺(そうじじ)」 太祖瑩山禅師さま御開山
です。

 教えはわたしたちはみな仏(ほとけ)の子(みこ)であり、生まれながらに仏心を具(そな)えています。しかしそれに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくっています。

 ひとたび仏さまに懺悔(ざんげ)し帰依(きえ)するならば、心が落ち着いておのずから生活が調えられて明るくなり社会のお役にたつことを喜び、又どんな苦難にも耐えて生き抜こうとする信念が生まれます。そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗の教えであります。

泉洞寺の行事について(主なこと)

 新年修正会 01月01日〜03日
 高祖道元禅師降誕会 01月26日
 釈尊涅槃会 03月15日
 春彼岸会
 大般若会 05月01日
 花まつり(釈尊降誕会) 05月上旬
 夏休み早朝坐禅会 08月02日〜06日(5日間)
 (参加自由・初心者歓迎・お出かけ下さい)
 施食会 08月13日
 盂蘭盆会 08月13日〜16日
 秋彼岸会
 両祖忌 09月29日
 太祖瑩山禅師降誕会 11月21日
 釈尊成道会 12月08日
 二年詣り 12月31日
「泉洞寺梅花講」 (月1回)

 梅花講とは曹洞宗の御詠歌である梅花流を学ぶ泉洞寺の檀信徒によって構成されています。ぜひご参加下さい。楽しく梅花流をお唱えすることで曹洞宗の教えを学べます。

 出典:以上泉洞寺の公式Wegbより

 以下は泉洞寺の山門の前にある不許山門....の石碑です。これは禅寺や律院などで、山門や総門の前の石柱に刻んだ標語です。"葷"とはニンニク・ラッキョウ・ネギ・ショウガを意味し、これらは強精食品で酒とともに人間の魂を乱すものとして、寺に持ち込みが禁じられていることを示しているようです。

 最近では東京都文京区小石川にあります伝通院の門前にありました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 下は泉洞寺の山門(惣門)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 門を入る手前に、道祖神のような石仏がたくさんありました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 下は6体のお地蔵様です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-6

 そして泉洞寺の本殿です。前に2つの灯籠があります。


泉洞寺の本殿
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-5-6


泉洞寺の本殿
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-5-6

 下は泉洞寺の鐘楼です。


泉洞寺の鐘楼
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-5-6

 泉洞寺の境内の一角に、以下の満州開拓団についての解説がありました。この種の記念碑は北軽井沢にもあります。



 昭和16年6月、満州開拓の国策に挺身すべく佐久上小松本東西筑摩出身の健児茨城県内原訓練所を経て満州国牡丹江省青年義勇隊寧安訓練所に入所成沢中隊として三ヶ年亘り切磋琢磨、青春の情熱を傾けて訓練に励んだ。

 この間、祖国は太平洋戦争に突入時局は愈々急迫の度を加えた同19年中隊は栄ある訓練本部長賞に輝き6月訓練終了により牡丹江河畔寧安県海浪村に入植第四次東海浪瑞原義勇隊開拓団として待望の村造りに着手したが、戦局の悪化とともに多数の団員が軍に招集されるに及び翌20年5月郷里より勤労奉仕隊15名を迎え入れた8月9日ソ連参戦15日祖国の敗戦もしらず避難行動の途次第一次義勇隊海浪開拓団に休憩中現地叛乱兵の襲撃を受け河田幹部以下30数名壮烈なるなる最期をとげた。
 
 また戦地にあって散華した者或いは病死した者多数に上った幸いにして生還し得た者団の悲報に慟哭したが本年27回忌に当たり帰国後の物故者を含め83名に及ぶ亡き同志の冥福と永遠の平和を祈願するため有志一同相図り協力して本地蔵尊を建立した渡満人296名現存者213名願わくは在天の英霊よここに来たり手安らかに眠らんことを

昭和46年9月26日 瑞原会

 長野県からは多くの人々が満蒙開拓団にかりだされ、その多くの人々が亡くなったと聞いていますが、この地域からも多くの人々が行かれ亡くなったことが分かります。

 青山貞一が住んでいる東京都品川区小山(旧荏原村)からも多くの人々が満蒙開拓団に行かれ、その圧倒的多くが亡くなっていると100歳になる母から聞いています。


つづく