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大都会の中の日本の造形美

上野東照宮

10. 「昇り龍」と「降り龍」

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda
山形美智子 Michiko Yamagata   鷹取 敦 Atsushi Takatori

December 19 2014
Independent Media E-wave Tokyo
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大都会の中の日本の造形美 
@はじめに D石灯籠 H唐門と透塀 L新旧社殿
A誕生の歴史 E青銅灯籠 I昇り龍と降り龍 M花鳥彫刻
B社殿と境内概略 F神楽殿と御水舎 J唐門周辺彫刻 N家康の遺訓
C大鳥居と水舎門 G新旧の唐門 K社殿と権現造
歴代徳川将軍家家系  徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間



寛永寺の門にある徳川家の紋章(寛永寺の正面門で撮影)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13






境内略図  出典:上野東照宮が配布するパンフレット


◆昇り龍と降り龍

 ところで、唐門の内側の透塀との境にある彫刻が左甚五郎作と伝えられる昇り龍・降り龍がはめ込まれています。夕日に映えて絢爛豪華です。

 下は唐門の内部に掲載されていた解説です。



 上の解説に興味深いことが書かれていました。

 通常私達は、上を向いているのが昇り龍かと思いますが、そうではないようです。偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれています。

 以下の2枚の写真が左甚五郎作と伝えられる昇り龍と降り龍です。左の写真が降り龍、下の写真が昇り龍となります。

        
唐門彫刻  降り龍
撮影:鷹取 敦  Sony DSC-HX50V)
唐門彫刻  昇り龍
撮影:鷹取 敦  Sony DSC-HX50V)

◆講談『名工甚五郎の水呑みの龍』

 三代将軍家光が上野寛永寺の鐘楼建立にあたり、四隅の柱に甚五郎をはじめ木彫の名人4人を選んでそれぞれ1匹ずつの龍を彫らせた。

 甚五郎の彫った龍だけがなぜか夜な夜な柱から抜け出して不忍池に水を飲みに降りるようになり大騒動となる。

 そこで甚五郎が「可愛そうだが足止めをする」と言って金槌で龍の頭へくさびを打ち込むと、その夜から龍は水を飲みに降りなくなった、という話。

 寛永寺の跡地に昔の鐘楼と鐘は残っているが、鐘楼の四本柱に龍の木彫はない。すぐ傍の上野東照宮の唐門の本柱の額面に昇り龍と下り龍の高彫りがあって、東照宮ではこれが甚五郎作の《水呑み龍》だと伝えている。


◆左甚五郎


 以下は左甚五郎についての紹介、解説です。

◆左甚五郎

 左 甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。落語や講談、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。

 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。

 しかし、その製作年間は安土桃山時代〜江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。


名誉右に敵なし左甚五郎(中央が左甚五郎。歌川国芳・画、江戸時代)


伝承と関連する逸話

 逸話などでその存在さえも疑われているが、『日本歴史大辞典』(河出書房新社、1977年、原田伴彦執筆)など実在の人物として記述している文献も見られる。

 足利家臣伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)播州明石に生まれた。父親の亡き後、叔父である飛騨高山金森家家臣河合忠左衛門宅に寄寓。13歳で京伏見禁裏大工棟梁遊左法橋与平次の弟子となり彼になった。

 元和5年(1619年)に江戸へ下り、徳川家大工棟甲良(こうら)豊後宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。

 江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者老中土井大炒頭利勝の女婿讃岐高松藩主生駒高俊のもとに亡命。

 その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)高松藩の客文頭領となったが、慶安4年頃(1651年)に逝去。享年58。

 上記の経歴は左家の末裔・左光挙の著『左甚五郎の事蹟とその後』(1964年)、『名工左甚五郎の一生』(1971年)による。

 名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は1504年に誕生し66歳で没したとされている。

 16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。

 そのお達しにより、位(号)として”左”を名乗ったと云われている。 実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺(香芝市)鳳凰の欄間がある。

*上記についての参考文献は『名工左甚五郎 その一門』『彫物太鼓台』見学稔氏著書、などである

左甚五郎の伝承を持つ作品


眠り猫

日光東照宮(栃木県日光市) - 眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市) - 本殿 「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市) - 子宝・子育ての虎、つなぎの龍
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大字大崎)
上野東照宮(東京都台東区) - 唐門 「昇り龍」、「降り龍」
淨照寺(山梨県大月市)- 本堂欄間
長国寺(長野県長野市)- 霊屋 破風の鶴
龍潭寺(静岡県浜松市)- 龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)- 徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市) - 山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市) - 閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都市東山区) - 鶯張りの廊下
知恩院(京都市東山区) - 御影堂の天井に左甚五郎が置いていったという「忘れ傘」。
                 鶯張りの長廊下もある。
祇園祭 (京都府)- 鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市) - 力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加太)
出雲大社(島根県出雲市) - 八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)- 鳳凰の欄間
  これらの中には、作風がどう見ても似つかない物もある。他人の作品に甚五郎の
  名前を付けられるほどそれだけ、左甚五郎は、名の知れた彫刻師、大工だったのだろう。

出典:Wikipedia


つづく