エントランスへはここをクリック   

増上寺石灯籠等、移築実態調査

(東京西部・埼玉西部

皆野町 水潜寺

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

December 23, 2014
Independent Media E-wave Tokyo
無断転載禁

調査の目的 D秩父市 慈眼寺 H秩父市 菊水寺 M秩父市 阿弥陀寺 R飯能市 観音寺
@練馬区 長命寺 E秩父市 野坂寺 I皆野町 水潜寺 N横瀬町 法長寺 S飯能市 竹寺 2本
A西東京市 東禅寺 F秩父市 常楽寺 J秩父市 長泉院  O日高市 聖天院  練馬区 正覚院
B清瀬市 長命寺 3本  三峯神社 16本 K秩父市 清雲寺 P飯能市 能仁寺 2本
C秩父市 四萬部寺  G小鹿野市 鳳林寺 L秩父市 法雲寺  Q飯能市 満福寺
註)寺の名前の後ろにあります本数は論考の頁数です。つづくをクリックすることで進みます。

 2014年12月23日、三峯神社を参拝した後、小鹿野町、旧吉田町、皆野町の神社の石灯籠について現地調査しました。この日、最後の調査は皆野町の水潜寺です。既に、冬至も過ぎつるべ落としの夕日が沈み始める寸前でした。

 皆野町の水潜寺は、破風山の北側の谷間にあります。皆野町役場から県道284号線を4km弱西に向かいます。


水潜寺の位置      出典:グーグルマップ

 途中、破風山の側に少し入った場所に水潜時があります。


水潜寺の位置      出典:グーグルマップ


◆水潜時の概要と縁起

・日沢山 水潜寺
・秩父札所第三十四番 日澤山水潜寺(御堂六間四面西向)
・本尊千手觀音 傳教大師御作
・ 住所:秩父市皆野町日野沢3522 
・TEL:0494-62-3999

 札所三十四番、日沢山水潜寺の由来については、境内の案内板には 次のように記述されています。

 この札所は、秩父三十四霊場、日本百観音霊場(西国、坂東、秩父)の結願寺として、巡礼者 が打ち留めの札と笈摺を紊めた寺です。

 観音堂は、大きな流れ向拝をつけた六間四面方形造りで、文政十一年(1828年)の建築で あります。内陣は壁で囲まれ、外陣は桟唐戸をたて周囲に縁を廻し、内陣外陣の境には格子戸を以て仕切り、その上部に飛天像その他の極彩色彫刻を入れ、組物は出組で格天井をうけ、鏡板には円形の輪郭をとり、花鳥の様々が画かれています。

 本尊は、一木造り室町時代の作と伝えられる千手観音、西国をかたどる西方浄土の阿弥陀如来、 坂東をかたどる東方瑠璃光世界の薬師如来がまつられ、日本百観音結願寺の特殊性を出しています。 堂内には大日如来の胎内仏で初期鋳造の阿弥陀如来、享保十八年諸国信者の寄進による鋳造子育観音など、境内には百観音結願堂、仏足堂をはじめ、七観音、三十三観音、六地蔵などがまつられています。

 観音堂前には、百観音宝前のお砂を紊めたお砂踏みがあり、この上で三体の御本尊を拝むことにより、百観音 巡礼の功徳が得られると信じられています。また、観音堂の傍らの崖下に、清浄長命水を湧出する寺吊のおこり 水くぐりの岩屋があり、札所巡礼を終えた人々は、ここで再生儀礼の胎内くぐりをし、長命水をいただき、笈摺を 紊め心身共に清浄になって俗世の生活に帰ったと言われています。

                                      皆野町教育委員会


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24

札所34番日沢山水潜寺

 萬代の ねがいをここに 納めおく 苔の下より いづる水かな

 札所 秩父札所34番寺の前に、結願の御砂ふみがある。平らな黒御影石に二つの足形が揃えて彫ってあり、「足形の上で拝めば、百観音巡礼の功徳がある」と刻まれています。

 この上に乗って手を合わせると、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の合わせて日本百観音巡礼を果たしたという爽快な気分になるから不思議です。

 秩父札所34番の観音堂は、寛政の頃(1789〜1800)、江戸在住の人々の寄進によって再建されたと伝えられる方形屋根、四間四面の建物で、周囲の環境と調和して結願の寺にふさわしい森厳な寺域であります。

 観音堂に向かって右奥の岩下に、自然の岩窟があり、清水が湧き、かたわらに石仏がまつってあります。

 秩父34ヶ所の巡礼を終えた人達が、ここで結願の水垢離をとって、笈を解いたところである。

 秩父札所34番の寺名はこの行事に由来します。苔むした大きな水鉢にあふれる清水を口に含むと、山の霊気がこもったようなすずやかな味で、身も心も清冽な気分に満たされます。


ハイキングコースと参道

 水潜寺の参道は「関東ふれあいの道」の一部にもなっています。このハイキングコースは、関東ふれいあの道といって、皆野町風戸入り口から破風山を越え、巡礼道の札立峠を通り、水潜時に至る全長4.3kmの自然歩道です。下にコースの案内図を示します。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23

 そのハイキングコースの最終地点が<水潜寺>の参道となっているのです。下の写真は、参道から境内に入る入り口です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


◆水潜寺境内と伽藍

 下に水潜寺の境内図を示します。

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23

 水潜時は日本百観音結願所にもなっています。左側に石像が沢山あります。

◆日本百番観音の結願寺とは

 本尊の千手観世音は、一木造りで室町時代の作と伝えられ、脇侍に西国をかたどる西方浄土の阿弥陀如来と、坂東をかたどる東方瑠璃光世界の薬師如来とがまつられています。結願寺らしく、観音堂内の右手には、百観音巡礼を終えた人達の金剛杖や菅笠、千羽鶴などが満願の納札とともに供えられています。観音堂前には、百観音お砂踏があります。


出典:秩父札所連合会


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23
 
 下が百観音結願堂です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23

 下が讃仏堂(納経所)です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


観音堂(本堂)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


観音堂(本堂)の天井
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


観音堂(本堂)の天井
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-2


観音堂(本堂)の天井
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-2

 下が仏足堂です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23

 下が三十三観音です。


三十三観音
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23

 なお、今回は時間の関係で行けませんでしたが、水潜時には、水くぐりの岩屋があります。水くぐりの岩屋は観音堂の右の崖下に水くぐり(水潜り)の岩屋があり、かつては巡礼を終えた人々が胎内くぐりをして、身を清めてから俗世にかえったといわれています。岩屋の中からは清水が湧き出ており、長命水とよばれています

◆観音霊験記

 図は、下記の資料より引用した秩父札所三十四番日沢山水潜寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。

 「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,?部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
札立峠
天長元年、東國大旱魃にて五穀は勿論、人畜草木も助かるべき法も、手を盡しけれども雨降らず、 然る処當山にふしぎの僧一人来りて、土民に向ひて、雨を祈らば、?甘露法雨と書きたる札を立て、 観音を信心せよとさとしければ、教えの如くして祈りけるに、三日目に其丈六尺余の法師、蓑笠を 着て山の上の岩に笈をおろし、杖をもて岩を突ば、忽ち水湧出て滝のごとく流るれば、里人ら喜び て是を?み、彼法師を敬いければ、吾六十余州を巡りて此霊地に至る。此所百番順礼の結願所とすれば、 今茲に西国をかたどりて阿弥陀をおき、坂東をかたどりて東方の薬師をおき、此観音をおきて、則百番 となる。吾笈摺を紊むるのち、必ず熊野権現をはじめ、あまたの権現来るがゆえ、信心おこたる事なかれ。 今ぞ雨降るというより早く失給う。間もなく法雨忽ち降りて、衆生の命助かりければ弥弥尊びぬ。札立峠 の吊も茲に始るといふなり。


水潜寺の霊験記の錦絵

◆秩父三十四所觀音霊験圓通傳

 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、水潜寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。

◆第三十四番 日澤山水潜寺(御堂六間四面西向)
 本尊千手觀音 傳教大師御作

 當山開基の原始を尋に、昔時天長元年、東國大に旱して金石流、土山焦、草木涸て枯野の如く、鳥獣も 喘ぎ苦しむ 此山下の民雨を乞へども甲斐なく、岩碎大地さけていとおそろし。然るに僧教て曰、?に 甘露法雨と札に書て所々に建て、観世音に祈ば必ず其験有べしと云。里人悦で教の如く所々に甘露法雨の 文を書て建てたり。

 札たて峠と云は此旧跡なり。斯て後、第三日にあたる晨、身の長六尺餘の法師、蓑笠を着し木履をはき、 大雨を凌ぐ儲事ことしき出立哉と、目をそばめかゝる大旱にそげたる法師の有様やと笑罵れども、此僧 かへり見ず峯に登る事飛ぶが如く、山上の石上に笈を下し、三尊の佛像を出し、永く此地に止り給ひ、化 縁を東國に施し給へ、當所水涸て民大に渇す、救はずんば有べからずと、柱杖を以て岩石を突に、水涌 出瀧の如し。

 是を見て山下の民驚來此泉を飲に其味清く美也、各悦で如清涼池と唱へて拜す。僧の曰、 吾六十餘州を巡て今此霊地に至る、此處順禮所願成就の地也、吾笈摺を脱て此處に紊め置べし、是より 後数十の甲子を経て、熊野権現余多の権化と共に來て、亦此地に笈摺を脱置給はん、此本尊阿弥陀如来 薬師佛を左右に安置する事は、弥陀は西方の教主、是を西國三十三所に表し、薬師如来は東方の化主、 是を坂東にかたどる、此地の三十四所とゝもに百番順禮の結願所とすべし、亦汝等が願の儘に大雨降來 るべし、早く此尊像を掩べしと、里民集て茅荊押刈て則時に本尊を掩ひ奉る。

 時に黒雲満天にはびこり、 雷鼓掣電雨滂沛と降り下て車軸を洗ふ、民悦で是佛力にあらずして何ぞ此甘澤を蒙らんと、手の舞足の 踏處をしらず。時に旅僧示て曰、此三尊は傳教大師の彫刻也、必ず後世霊瑞多かるべし、厚く敬ひ奉れ と、よくよく教諭して、笈取て肩に掛、麓をさして下る事飛鳥のかけるが如く、終に其行處をしらず。

 果 して其後文暦年中、異僧十餘輩郡中を巡禮し給ひ、此山に登り各笈摺を脱置て去給ひぬ。當山の住侶麓 の郷民、悉く集会して是こそ古より聞傳へし事有、熊野大権現にておわしませ、此笈摺を神體とし此處に 祭るべしと、則石の櫃に紊め巡禮の守護神と崇奉、當山の奥の院に鎮座て永く當山の護法と仰奉る。其 後代々當郡の領主、近國の上下、尊信し奉り、殿堂悉く成就し、三十四處の結願成就満足の霊場となれ り。




◆水潜寺にある増上寺からの移築された石灯籠についての実態調査

 伊藤氏の増上寺の石灯籠の移築調査によると、以下に示すように、水潜寺には有章院の灯籠が2基あることになっています。ちなみに、有章院は徳川家継の院号です。


出典:※伊藤 友己氏 増上寺の石灯籠

<参考>
徳川家康  安国院(あんこくいん)
徳川秀忠  台徳院(だいとくいん)
徳川家光  大猷院(たいゆういいん)
徳川家綱  厳有院(げんゆういん)
徳川綱吉  常憲院(じょうけんいん)
徳川家宣  文昭院(ぶんしょういん)......増上寺
徳川家継  有章院(ゆうしょういん......増上寺
徳川吉宗  有徳院 (ゆうとくいん)
徳川家重  惇信院 (じゅんしんいん)
徳川家治  浚明院(しゅんめいいん)
徳川家斉  文恭院(ぶんきょういん)
徳川家慶  慎徳院(しんとくいん)
徳川家定  温恭院(おんきょういん)
徳川家茂  昭徳院(しょうとくいん)

◆青山貞一・池田こみち:歴代徳川将軍家家系
◆池田こみち:徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間(和暦対応表)


 水潜寺では、本堂に上がってゆく途中に、2つの増上寺の灯籠が鎮座していました。ともに有章院の石灯籠です。


ひとつめの石灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


ひとつめの石灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


ひとつ目の石灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


二つめの石灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


二つの石灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23


二つの石灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-23

 ということで、リストにあった2つの文章院 石灯籠2基を現地で確認することが出来ました。