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2014年12月24日、午前中は旧荒川村、現在の秩父市の旧荒川村にある寺院を4つほど回りました。この日一つ目と2つ目の訪問先、長泉院、清雲寺には増上寺の石灯籠がそれぞれ2基ずつあるとされています。 長泉院、清雲寺の場所は、通称、彩甲斐街道、国道140号線で秩父市中心部から山梨県側に向かい、途中、清雲寺のしだれ桜の看板が出ているところで左折します。近くには浦山ダムがあります。私達は秩父市の中心部から国道140号線で来ました。 青雲寺の位置 出典:グーグルマップ 下は左折後、清雲寺までの地図です。背後には小高い丘があります。また清雲寺は春のしだれ桜で有名であり大きな駐車場があります。 清雲寺の位置 出典:グーグルマップ 途中以下の看板が立っています。長泉院の手前、より秩父寄りに位置しています。私たちは先に長泉院に行ってから清雲寺に行きました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 所在地:秩父市荒川上田野690番地(栃久保区) 所有者:岩松山 清雲寺 清雲寺の山門前には、しだれ桜群があります。おそらく春にはすばらしい桜が咲き乱れることと思います。 ◆岩松山 清雲寺 http://chichibu.c-next.net/entry/sakura-seiunji.html 門前にある桜のうち中央付近にあるのが、埼玉県天然記念物の樹齢約600年の しだれ桜です。エドヒガンザクラで、清雲寺を開山した楳峯香禅師がお手植えさ れたと伝わります。太く力強く立ち上がった幹が、歴史の長さを感じさせます。 本堂前の向かって右側には、秩父市指定天然記念物のしだれ桜があります。大き く枝を広げ、見事な枝ぶりです。木の下にはお地蔵様が並んでいます。 清雲寺には「エドヒガンザクラ」「秩父紅しだれ桜」などのしだれ桜が大小30 本ほどあります。品種により花の色に違いがあり、開花も1週間程度の違いがあ ります。エドヒガンザクラは少し早めに咲き、そのあと秩父紅しだれ桜が咲きま す。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 下が天然記念物にもなっている清雲寺境内のしだれ桜です。真冬なので当然、葉も桜の花もありませんが、ぜひ、春に見てみたいものです。 清雲寺の境内としだれ桜 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-12-24 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 秩父市指定天然記念物 清雲寺境内のしだれ桜の標識 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 ちなみに、グーグルストリートビューに以下の写真がありました。 清雲寺のしだれ桜 出典:グーグルストリートビュー ◆秩父市の解説 若御子山の麓に、臨済宗建長寺派に属する岩松山清雲寺がある。文安3年(1446)開創と伝える古刹である。この寺には、樹令600年に及ぶ枝垂サクラの老木が県の天然記念物に指定されている。このサクラのほか、本堂前の境内にある3本の枝垂サクラが市の天然記念物になっている。いずれも樹勢は旺盛である。 ◆清雲寺の概要 残念ながら清雲寺の概要、縁起、由来などについては、埼玉県秩父市の若御子山の麓に1420(応永27)年に創建されたと伝わる寺院という以外の情報は、現地にもデジタル情報にもありませんでした。清雲寺であるのは、地図にも表記されているしだれ桜と後述する清雲寺事件についての情報だけです。 少しでも縁起、歴史に関わる情報は現地にありました以下の石碑です。しかし、下の記念碑も読んで見ると台風で破壊された寺を修復するための経費負担や修復内容であり、 縁起、歴史に関わる情報はありませんでした。 やっとのことで得た情報は、次の通りです。 出典:秩父昔話の荒川の清雲寺 http://www.ksky.ne.jp/~kawasemi/ohanashi/subu/page02.htm 清雲寺秩父市荒川大字上田野に岩松山清雲寺というお寺があります。この寺には応永年中(140ころ)より既にあった言われる、荒川しだれ桜の差木(天然記念物)が天空にそびえ、ひときわその貫禄を添えております。又現在の建物は寛保元年(1741)に再建されたものと伝えられておりますが、維新のころこの山寺に一大珍事が起こりました。 この一大珍事は、後述する清雲寺事件ですが、上の解説のつづきを以下に紹介しておきます。 この事件というのは、京都より逃れ来た大炊御門尊正公が捕縛されたことであります。慶応四年辰年二月十九日、大炊御門右大臣家信公の嫡子尊正公は、村役人や重立った人々の出迎えを受け当清雲寺にお着きになられました。公が当地にこられた理由は、幕末混乱の際大政を再び朝廷に還さんとなされ、そのため本郡に拠って関東の状況をつぶさに観察し、種々謀るところがあったためと伝えられております。 医者高貴な身分にも拘らず公がわざわざこの僻地にお出でになったのは、もともとこの地から出た原島某という人で、彼は医者となり名前を玄徳と改めて京都に住み、頻りに上下の人々と交わりを結んでおりましたが、偶々公が東下することになると、自ら天輝源三郎と名乗っていろいろ公をおたすけし、関東の状況視察については本拠を僻地ながらも江戸に近い秩父の地にお奨めしたのでした。 六十余人京をたってより幾度か、ある時は道化師に身をやつして大任遂行の日を夢見ながら続ける公の旅姿は、目にあまる痛ましいものでありました。こうして、旅装を解いた二十一日天輝源三郎を知る人々六十余人は清雲寺の一堂に集まり、この度の大命を帯びて秩父に来られた理由を説明されました。 清雲寺居並ぶ者の眼には真剣な目的達成のための努力がうかがえたのでありました。そうしてまず公の仮御殿を後嵯峨院第三皇子髴僧大師の御開山になる大滝村太陽寺に定めて着々その実現に移す事を約して一同は解散したのでありました。公の喜びは如何ばかりであったでしょうか。苦しさを堪え、疲れにむち打って続けたあの痛ましい逃避行も、この日、この感激があればこそ耐え忍んだのではないでしょうか。 包囲しかしこの喜びは大きな不運の中に消えたのでした。忘れもしない、同月二十三日正午大宮代官所はこの様子を察知し、組子六人と手先十人を遣わし、刀、槍、銃の武器を以って突然、清雲寺を包囲したのでありました。 激戦尊正公をはじめ、天輝源三郎従士、少数ながらよくこれと戦いましたが利なく、大任実現を見ないで遂に斃死されたのでありました。当清雲寺の本堂側室の鴨居には刃剣の跡が、杉戸には弾痕が歴々として往時の激戦のあとを物語っており、又裏山中腹の草むらの間には、公、従士の墓石が往年の憾を残して立っております。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 一方、清雲寺は、幕末の戊辰戦争などにも関連し、以下にあるような事件の場となっていたそうです。 ◆清雲寺 清雲寺事件 慶応4年(1868)、右大臣藤原家信卿の嫡子大炊御門尊正は、王政復古の慮を奉じて、当地出身の京の医者玄徳(天輝源三郎)等を引きつれ清雲寺に来たり、里人を集めて回天の議を発したが、代官所は捕吏を率きいて清雲寺を襲い、交刃乱闘し、尊正以下ことごとく討ち取られた。世にいう清雲寺事件である。 尊正の墓は、寺の裏手にあり大雄院と法号される。 出典:http://www.city.chichibu.lg.jp/4437.html 清雲寺の境内にある樹齢六〇〇年といわれる枝垂れ桜は県指定文化財であり、花笠を開いたような見事な咲きぶりに、訪れる観光客は年ごとに増加している。 江戸時代末期、ペリーによる黒船来航を機に、幕府の勢威はようやく衰えをみせ、文久年間以降、国内は尊王派と佐幕派が入り乱れ、麻のように乱れた。薩摩・長州の両藩は、王政復古を旗印に、鳥羽伏見の戦いをきっかけにして、旧幕府軍に対し戦闘を始めた。戊辰戦争である。 風雲急を告げる慶応四年二月、時の右大臣大炊御門家信は、薩長による討幕の密勅に応じた実力行動を計画した。それは、関東の地に有力な公家を送り、尊王派を結集することによって討幕の機運を煽り、王政復古の実をあげようとするものであった。家信の嫡子尊正は、この大任を担い京都を出発、同月二〇日、清雲寺に到着した。 秩父を目指したのは、大炊御門家の遠祖後醍醐天皇の第三皇子髯僧大師が開山した太陽寺があり、そこに仮御殿を造営し尊王派の拠点にする計画だったといわれている。尊正は、ただちに忍藩大宮郷代官所に綸旨を発し代官松平下総守の出頭を命じたが、代官はこれに応じなかった。二三日、代官所の配下一六人は尊正の滞在する秩父市荒川清雲寺を取り囲み、不意をつかれた尊正一行は、敵対する術もないままことごとく斬殺された。これが世に言う秩父市荒川清雲寺事件である。 出典:http://www.ksky.ne.jp/~kawasemi/arakawa/sabu/tera.htm 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 ◆青雲寺の伽藍など 下はしだれ桜がある境内から山門を見たところです。立派な白壁が両側に続いています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 下は山門の写真です。この山門が平成になって修復されています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 以下が本堂です。 本堂の手前の両側に石灯籠がありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 本堂の前に増上寺のものとおぼしき立派な石灯籠が鎮座していました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 下はその石灯籠を池田が調査しているところです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 境内には沢山の石像がありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 ◆清雲寺にある増上寺・寛永寺からの移築された 石灯籠についての実態調査 伊藤氏の増上寺の石灯籠の移築調査によると、以下に示すように、清雲寺には文昭院 の灯籠が2基あることになっています。ちなみに文昭院 は、徳川家宣の院号です。 出典:※伊藤 友己氏 増上寺の石灯籠 <参考> 徳川家康 安国院(あんこくいん) 徳川秀忠 台徳院(だいとくいん) 徳川家光 大猷院(たいゆういいん) 徳川家綱 厳有院(げんゆういん) 徳川綱吉 常憲院(じょうけんいん) 徳川家宣 文昭院(ぶんしょういん) 徳川家継 有章院(ゆうしょういん) 徳川吉宗 有徳院 (ゆうとくいん) 徳川家重 惇信院 (じゅんしんいん)......増上寺 徳川家治 浚明院(しゅんめいいん) 徳川家斉 文恭院(ぶんきょういん) 徳川家慶 慎徳院(しんとくいん) 徳川家定 温恭院(おんきょういん) 徳川家茂 昭徳院(しょうとくいん) ◆青山貞一・池田こみち:歴代徳川将軍家家系 ◆池田こみち:徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間(和暦対応表) 本堂の手前の両側に石灯籠がありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 以下にあるように左右とも石灯籠には文昭院の刻字がありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-24 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-12-24 ということで、リストにあった2つの文章院 の石灯籠を現地で確認することが出来ました。 |