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小鹿野町 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
私たちは次に神怡舘にほど近い両神神社に向かった。 この両神神社は、正式には両神御嶽神社(両神山両神神社(登記名)、旧金剛山))という。 先に上った両神神社(里宮)とは下のグーグルマップにあるように10km以上離れている。 出典:グーグルマップ 下は両神神社は略称である。正式には両神御嶽神社(両神山両神神社(登記名)、旧金剛山))という。えらく長い名称だが、後述するように、それには訳がある。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 両神御嶽神社(両神山両神神社(登記名)、旧金剛山 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 両神御嶽神社(両神山両神神社(登記名)、旧金剛山 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15 下は両神御嶽神社(両神山両神神社(登記名)、旧金剛山)の成り立ちの経緯である。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 この両神神社は、以下にあるように、同じ小鹿野町の両神山山麓にある両神神社とは異なり、その奥社は四阿屋山に、また里宮は四阿屋山の麓の薬師堂に置いている。
ここにはもともと法養寺の薬師堂がある。薬師堂に向かう。 法養寺の薬師堂に向かう 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 下はその法養寺の薬師堂である。立派なお堂である。 この薬師堂は、日向薬師(神奈川県伊勢原市)、蓬莱寺薬師(愛知県新城市)とともに「日本三体薬師」の一つに数えられている。 法養寺の薬師堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 法養寺の薬師堂 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15 法養寺の薬師堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 埼玉県指定有形文化財(建造物)昭和49年3月8日指定 ◆法養寺薬師堂 一棟 薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山・四阿屋山(あずまやさん・771.6メートル)の麓に、平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といいます。山の薬師、目の病気に霊験あらたかな薬師として広く庶民の信仰を集め、日向薬師(神奈川県伊勢原市)、蓬莱寺薬師(愛知県新城市)とともに「日本三体薬師」の一つに数えられています。 縁日は、毎年一月八日で多くの参詣者で賑わい、秩父神社大祭、飯田八幡神社祭り、薬師様の縁日は「秩父三マチ(祭り)」といわれていました。 建物は、石積みの基壇上に建ち、間口11.7メートル、奥行き11.27メートルを測り、外廻りに幅1.39メートルの縁・高欄が付く三間四面の堂です。構造は、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)とも三間、一間の向拝(こうはい)が付きます。 屋根は、建造当初は茅葺きと推定されますが、享保年間(1713〜36)に向拝を付けた際、瓦葺きに改められ、その後昭和五十三年に銅板葺きに改修しています。 建築様式は和様に唐様が混じり、寄せ棟造りで円柱が立ち並ぶ軸部の木割りは太いものですが、斗供(ときょう・柱上にあって軒を支える組み物)は繊細なものといわれます。木鼻(きばな・柱の上部をつなぐ貫の端)の模様や外壁に打ち付けられていた天正年間(1573〜92)の納札から天正頃の移築改造と推定されています。床は槍鉋(やりがんな)で仕上げられています。古い柱配置などの特徴をもち、県内に残る中世の代表的な建造物の一つです。 薬師堂の由来については、明らかではありませんが、永禄十二年(1569)から元亀元年(1570)にかけて武田信玄の秩父侵攻の際、岳火で焼失したと言われています。その後、北武蔵の有力な軍事拠点であった鉢形城主の北条氏邦が由緒ある薬師堂を再建したといいます。 平成二十五年三月十五日 小鹿野町教育委員会 下は養寺の薬師堂の山門である。 養寺の薬師堂の山門 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 法養寺薬師堂山門の仁王像(あうん) 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-12-15 法養寺の薬師堂の山門と神楽殿 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 なお、旧両神村のこのあたりは、両神国民休養地となっており、下の案内図のように沢山のみどころとトレッキングコースがある。私達も両神御嶽神社から現在地とある山の頂上まで車で登ってみた(案内図中、白い太い道路)。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2015-12-15 この後、私達は、秩父市を東西に走る国道140号線に下り、秩父市、飯能市などを経由し、新座市にある平林寺を訪問した。平林寺には2015年5月のゴールデンウィークに来ており、今回は二回目となる。 平林寺といえば紅葉である。しかし、今年の紅葉は12月第一週頃が見頃であり、今回は境内に残るわずかな紅葉を見るだけだったが、それでもさすが平林寺、素晴らしいことには変わりが無い。 平林寺については別途、論考を執筆するのでそちらをご覧頂きたい。 以下は大別し二つの両神神社と二つの山(両神山、四阿屋山)の関係を記したものである。詳細を知りたい方はご一読を! ◆両神山 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/.../%E4%B8%A1%E7%A5%9E%E5%B1%B1 両神山(りょうかみさん)は埼玉県秩父郡小鹿野町と秩父市の境目にある山。 ... 狼を神 の使いとする三峰神社の影響が窺われる。 ... また、以前は旧両神村の白井差集落方面 の登山道が山頂までの最短ルートであったが、行政(両神村・埼玉県や環境庁)と地権 者との相続税に関する見解の相違から ... いずれも東面の、日向大谷の両神神社<観 蔵院>と浦島の御嶽神社<金剛院>の2院を主要拠点として、修験道が展開されてきた 。 ◆四阿屋山から両見山 www.k2.dion.ne.jp/~tnhc/azryo/azryo.html 秩父市の市街地から国道299号で小鹿野町方面へ向かうと、西方に両神山の特徴的な 姿が見えてくる。 ... 四阿屋山へはいくつかの登り口があるが、山腹にある県立両神自然 公園の福寿草園やロウバイ園用の駐車場から歩けば短時間で山頂に行けるようだ。 .... その後、大正6年(1917年)には政府が推し進める神社の統廃合政策により薄村の諸 神社が統合され両神神社と改称されたの ..... 江戸時代には浦島地区の金剛院(御嶽 神社里宮)から両見山や辺見岳を経由して両神山の御嶽神社本社まで ... ◆秩父山地の歴史と文化 - 山と渓ときのこと酒と www.yasutani.com/prof/titibun.htm 埼玉県の中央部・東部は関東平野の一部をなし、西に行くに従って高度を増して関東 山地の一角である秩父山地に至る。 .... 秩父郡長瀞町産の緑泥片岩で作られたこの 板碑は、奥秩父の十文字峠を越えて千曲川源流に運ばれ、さらに船運により日本海を 経て能登に運ばれたと推定されている。 .... 両神山の代表的な修験寺院は、日向大谷 集落の観蔵院(現在の両神神社・当山派)と浦島集落の金剛院(現在の御嶽神社・本山 派)、および ... ◆滝めぐり記録白水滝叶山 - 巨石・滝・地形めぐりの記録と資料 chibataki.moo.jp/tomonokaial/2005taki/05maeoki02yama.html 別称 三角山 長久保山 ザル平 埼玉県秩父郡小鹿野(おがの)町と群馬県多野郡神流( かんな)町(旧万場町)にまたがる。 .... 金剛院順明(じゅんみょう)は木曾御岳山を普寛行 者(ふかんぎょうじゃ)とともに中興して両神山に御岳信仰を広めたが、明治の ... 登路 登山道は旧両神村の日向大谷から薄川沿いに観蔵院〜会所〜清滝小屋〜両神神社を 経て山頂に至る表参道ルート(三時間三〇分)、秩父市(旧大滝村)日窒鉱山の上落合 橋 ... |