エントランスへはここをクリック   

「南京大虐殺」


その背景と経過を

NHKスペシャルより探る


A盧溝橋事件の勃発と

陸軍作戦本部の突出


青山貞一

2006年8月22日

独立系メディア E-wave Tokyo
@はじめに
A盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出
B蒋介石と中国の戦略
C第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
D顧問団助言の作戦とその展開
E上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗
F現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍
G蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
H南京陥落と陸戦法規適用の判断

 周知のように日中戦争は、日本軍が1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外のいわゆる盧溝橋(ろこうきょう)の近くで演習中に銃弾が打ち込まれ、それをきっかけに、中国軍との間で衝突が起こった。

 これがいわゆる「盧溝橋事件」である。

 盧溝橋事件をかわきりに日本軍は宣戦布告なき戦争に突入するこの日本の宣戦布告なき戦争への突入が日中戦争、満州事変、「南京大虐殺」の一大キーワードとなる。

 
以下はNHKスペシャル、日中戦争〜なぜ戦線は拡大したか〜の概要である。大部なので数回に分け概要を紹介する。


◆盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出

 盧溝橋事件当時の日本の総理大臣は近衛文麿である。事件が起きると近衛文麿総理は事件の不拡大方針を示す。


不拡大方針を唱える近衛文麿

 当時、傀儡政権の満州国に駐留していた関東軍は、下図にあるようにロシア軍と直接向かい合っており、そのため陸軍上層部も中国に戦力を割くのは危険であると考えていた。


傀儡政権、満州国

 しかし陸軍の中堅参謀のなかには、中国に強い姿勢、態度で臨むべきと言うグループがいた。その強弁論の中心は、陸軍作戦本部の武藤章作戦課長であった(下図参照)。


陸軍作戦本部の武藤章作戦課長

◆武藤章

1937年(昭和12)、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張する。1939年(昭和14)に陸軍省軍務局長、1942年(昭和17)に近衛第2師団長(スマトラ・メダン)、1944年(昭和19)に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。戦後、東京裁判で「捕虜虐待の罪」により死刑判決を受け、1948年12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 武藤課長らは、「対支一撃論」、すなわち大勢の日本の軍勢で中国軍を威嚇すれば、短期間で中国はすぐに屈服するとみていた。


対支一撃論

 下は対支一撃論の考え方を書いた参謀本部員史焉A河邊虎四郎少将の記録(極秘文書)である。


対支一撃論の考え方を書いた参謀本部員の記録(極秘文書)


 
日本軍はこの戦争を「速戦速決」、すなわち「中国おそれるに足りず」と判断、短期間のうちに勝利すると判断していた。これは中国に派遣された司令官、松井石根の日記からも読み取れる。下は松井の出征日誌。上海覇権軍司令部 松井石根とある。 


松井石根の出征日記

◆松井石根

 日中戦争前には予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰し、上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した

 その際に所謂、南京大虐殺が発生したとされる。

 事件の報を聞いたとき、彼は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた。」と嘆いたという。しかし、松井はその時点で指揮下の部隊に対する統制力を失っており、軍紀を回復することが出来なかった。松井は中支那方面軍司令官を解任され、本国へ呼び戻された。

 戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を努めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。翌昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
武藤らは軍部上層部に即派兵を求め、最終的に軍上層部そして日本政府も押し切られ、中国への派兵がきまる。

 日本から大陸に送り込まれた兵士も、この戦争はすぐに終わると信じ込んでいた。

 NHKのスペシャル番組では、参戦したある兵士が中国軍を「烏合の衆」程度にしか思っていなかったことを証言している。


 1937年から1945年
の都合8年に及ぶ戦争を日中戦争というが、日本は太平洋戦争に通ずるこの日中戦争のなかで、次第に国際的な孤立を深めることになる。

 ではなぜ、武藤課長らの言い分に陸軍上層部や政府首脳が押し切られたかが問題となる。

 その背景には、6年前の1931年9月に起きた満州事件がある。中国北東部に駐留した関東軍は、独断で戦線を拡大、わずか4ヶ月で中国東北部のほぼ全域を制圧し満州国が建設された。

◆関東軍

大日本帝国陸軍の総軍の一つ。南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、大正8年に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。張作霖爆殺事件や満州事変において関東軍が政府の方針に従わず独断で軍事行動を行った事等から批判がある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 関東軍は自らを過信、慢心していたのだが、陸軍上層部や日本政府は、武藤課長らの進言を押さえきれず、これを追認することになった。


満州国建設(1932年3月)

 当初、北京郊外の盧溝橋事件ではじまったこの戦争は、上海さらに南京へと戦線が拡大して行く。

 それは一部の陸軍幹部によるなし崩し的な戦線拡大と、結果的にそれを追認した日本政府の連携によるものである。

 日本の基本的間違いは、満州事件で中国北東部を制覇し、全域を制圧、傀儡政権、満州国をつくった日本の陸軍が、欧米各国に各種支援をもとめ、長期戦に持ち込み国共合作のもと次第に中国軍を見くびったことにある。

◆満州国

 1932年から1945年の間、満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)に存在した国家で、その建国には日本の関東軍が大きく係わっており、今日では日本本土及び当時支配下だった朝鮮半島の防衛と大陸での権益確保のために作った傀儡国家と見なすのが一般的である。第二次世界大戦(大東亜戦争)での日本の敗戦とともに消滅した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

◆国共合作(こっきょうがっさく)

 1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に亘り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は中国語で協力関係を意味する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 以下は陸軍省が当時の中国をどう見ていたかを記す文書である。これを見ると、いかに陸軍が中国を見くびっていたかが分かる。


中国国民党の輪郭(日本陸軍省 1933年発行)


 曰く「国民党は堕落し党員は腐敗、中国は四分五裂し、国家の体をなしていない。」と。


つづく