@はじめに
A盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出
B蒋介石と中国の戦略
C第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
D顧問団助言の作戦とその展開
E上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗
F現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍
G蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
H南京陥落と陸戦法規適用の判断
◆
第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
1937年(昭和12年)8月、盧溝橋事件から一ヶ月後、上海で新たな武力衝突がおこる。
第二次上海事変
1937年(昭和12)8月13日に起こった日本軍と中華民国軍の戦闘である。双方の戦闘は終わることなく、そのまま日中戦争へと進んだ。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶが、日中戦争の中に含めてしまうことも多い。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は全面衝突を開始した(北支事変)。上海では1935年(昭和10年)ごろから中国人による日本人暴行・殺害事件が発生していたが、7月24日に宮崎貞夫一等水兵が行方不明となったため、上海市民は第1次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難する市民まであった。
この事件は当初、中国人に拉致された事件と報道されたが、後に宮崎水兵が軍紀違反の発覚を恐れて逃亡したという真相が明らかになっている。
事件の経過
事件の発端は1937年8月9日に起こった、海軍中尉・大山勇夫殺害事件である。午後6時半ごろ、彼は上海の紅橋飛行場近くの路上で狙撃され、死亡した。大山は海軍陸戦隊の隊長で、その日も海軍の制服を着ていたため、海軍人を狙った犯行であることは間違いないと思われた。また、同行していた斎藤一等水兵は拉致された。
この同じ日、日本と中華民国の間では盧溝橋事件以来続いていた、日中間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれたが、この事件によって緊張は再び高まり、日本は2個師団を派遣して戦闘が始まった。8月13日、上海にて日中両軍に戦闘がはじまり、黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えた。
8月14日、中国空軍が日本艦隊を空襲したが、爆弾のほとんどはフランス租界や共同租界に落ち、2000人あまりの死者が出た。その同じ日、日本海軍は中国本土への空襲を始めた(渡洋爆撃)。こうして日本は宣戦布告しないまま、中華民国との本格的な戦争へと進んでいった。
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ここで明らかになったことは、中国は一撃で倒せるとした日本の見通しは、はやくも崩れることになる。
当時上海には欧米諸国や日本が権益を持つ
租界があり、日本人3万人も暮らしていた。この居留民保護のための上海の日本軍は約5000人いたが、蒋介石はそれを上回る精鋭部隊を送り込んできた。
租界
行政自治権や治外法権をもつ外国人居留地。阿片戦争後の不平等条約により中国各地の条約港に設けられた。 最も有名なものに上海の共同租界やフランス租界があるが、天津にも多数存在し、その他の開港場にも設けられた。近代中国における列強の半植民地支配の拠点であった。
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これに対し日本の陸軍は新たに10万人を超える派兵を行ったことで戦火は一気に拡大する。
第九師団歩兵第七連隊の戦闘詳報を見ると、この詳報は部隊に下された命令や作戦行動が日々詳細に記されている。これは上海から南京に至る部隊の動きが逐一追える数少ない公式報告書である。
第九師団歩兵第七連隊の戦闘詳報
詳報に
ある歩兵第七連隊の死傷表よると、2週間の戦闘で兵士2566人中、死者450人、負傷者905人、兵士の損耗率は53%に達していた。中国軍は予想を上回る強力な武器を持っていたとされる。
歩兵第七連隊の死傷表
その武器はチェコスロバキア製の軽機関銃であった。毎分550発を連射でき、命中精度も高く世界最高水準の軽機関銃と言われていた。
チェコスロバキア製のZ26軽機関銃
◆チェコ製ブルーノZB26軽機関銃
1926年から生産されたZB26軽機関銃はその後順調に他国への輸出を伸ばし、輸出先の国々で高評価を得た。第二次世界大戦ではナチスドイツにチェコスロバキアが占領されるとMG34の供給不足からドイツ軍でもZB26軽機関銃は限定的に使用されている。
一方アジア方面にも輸出され、特に中華民国に大量輸出されたZB26軽機関銃は対日戦線で使用され、その後国産まで行われた。中華民国製のZB26は日中戦争で使用され、弾薬も日本軍の一一年式軽機関銃が6.5mm×50弾であるのに対し中国産ZB26は7.92mm×57弾を使用しており戦線でも大戦果をあげている。
日本軍からはZB26を「チェッコ機銃」と呼ばれ、その後戦線を広げた日本軍は中国国内のZB26軽機関銃を製造していた工場を占領(太沽造兵廠など)、大量の7.92mm×57弾とZB26を捕獲する。この時九八式旋回機関銃の国産化に成功していた日本軍はこの弾薬をそのまま使用することができ、ZB26軽機関銃の優秀差から鹵獲した本銃を参考に一一式軽機関銃の後継銃である九六式軽機関銃を後に開発している。
第二次世界大戦後、ZB26軽機関銃は国共内戦でも大量に使用され、ベトナム軍にも供給されている。その後東側諸国の兵器がソ連製の物になると部品や弾も供給されないZB26軽機関銃は少しずつ姿を消していった。一方イギリスのブレン軽機関銃は1980年まで使用された。
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ドイツは最新の兵器を中国に大量に輸出していた。 ドイツの軍事資料館には蒋介石が開戦前から密かに進めていた軍備増強計画を物語る記録が残されていた。
フライブルグ軍事資料館
蒋介石のもとにはおよそ30名のドイツからの軍事顧問団がいた。その顧問団のファルケンハウゼンは、上海でのたたかいを前に「中国兵の士気は高い、これは極限までのたたかいとなる。徹底抗戦の構えは整っている」と。
ドイツ顧問団のファルケンハウゼン
◆エルンスト・アレクサンダー・アルフレート・ヘルマン・フライヘア・フォン・ファルケンハウゼン(Ernst Alexander Alfred Herrmann Freiherr von Falkenhausen, 1878年10月29日 - 1966年7月31日)
ドイツの軍人。最終階級は中将。第二次上海事変及び日中戦争の初期において中華民国の蒋介石の軍事顧問を務め、第二次世界大戦中はベルギー及び北仏に駐留するドイツ軍司令官を務めた。
◆中国勤務
中華民国ドイツ軍事顧問団で交代の動きがあり、ゼークトが中国へ渡る情勢となったが、外務省はこれを差し止めようとしていた。このためゼークトは1933年10月にファルケンハウゼンを中華民国の指導者蒋介石の個人顧問として推薦した。
招聘を受けたファルケンハウゼンは「東アジアにおける日本のヘゲモニーは当分揺るがない」と考えており、親中国的なゼークトとは意見を異にしていた。この後ファルケンハウゼンは自らの進路を各所に相談した。ヒトラーやエルンスト・レームはドイツ国内に残留することを勧め、突撃隊指導者などのポストを提示した。
一方で国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクや軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウは中国行きを暗に勧めた。結果ファルケンハウゼンは中国行きを決断し、1934年4月にゼークトとともに中国に渡った。
1935年にゼークトが帰国するとドイツ軍事顧問団団長となり、内戦で混乱する中国軍の育成や軍需生産の基礎作りに従事した。1937年の第二次上海事変の作戦計画を作成し、日本軍を相手に第一次世界大戦の塹壕戦を教訓とした「ゼークト・ライン」と呼ばれる防御陣地で対抗しようとしたが突破された。
ナチス政権下のドイツの極東政策は1936年には日独防共協定を結ぶ一方で中国への援助も継続されるなど、日本と中国との間で大きく揺れていた。ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、外務省では中国派が優勢だった。しかし1938年にリッベントロップが外相に就任すると日本重視の姿勢が決定的となり、軍事顧問団は撤収することになった。帰国したファルケンハウゼンはナチスに否定的なフランツ・ハルダーらに近づいた。
出典:Wikipedia |
ナチス政権下のドイツは、蒋介石の依頼に応じ日本との協調関係を維持しながら大量のチェコスロバキア製の当時世界最新鋭の軽機関銃を多数中国に偽装して売っていた事実も資料で判明している。
ヒットラーは「日本との協調関係は維持する。しかし、武器などの中国への輸出も偽装できる限り続ける」と。
ドイツからは装甲車や戦闘機などが大量に輸出された。盧溝橋事件の年には前年の3倍に上る軍需品が中国に渡っていた。ファルケンハウゼンは、中国側に最新兵器の使い方や戦術を授け、精鋭部隊を育成していた。
つづく