「南京大虐殺」 その背景と経過を NHKスペシャルより探る E上海攻防戦と日本への 経済制裁の失敗 青山貞一 2006年8月22日 独立系メディア E-wave Tokyo |
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@はじめに
A盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出 B蒋介石と中国の戦略 C第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態 D顧問団助言の作戦とその展開 E上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗 F現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍 G蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状 H南京陥落と陸戦法規適用の判断 ◆上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗 日本軍は中国は一撃すれば屈服するという言葉とは裏腹の現実となった。兵士達は敵愾心を募らせて行った。 この年の10月20日、東京の陸軍本部は大規模な増援を新たに決定する。 東京の陸軍参謀本部 この時、軍の上層部は戦いの早期解決を図るため戦場を上海近郊に厳しく限定した。 そのため、蘇州と嘉興を結ぶ線をひき、それを超えて西に進軍することを禁じた。これを制令線といった。 蘇州と嘉興を結ぶ制令線 陸軍増派の決定は政府にも大きな決断を迫ることとなった。戦いがここまで拡大した以上、正式に宣戦布告を行い国際法上の戦争にすべきかどうかという問題である。 しかし、当時日本にはこれを国際法上の戦争としたくない事情があった。カギを握っていたのはアメリカであった。当時アメリカは国際都市上海を爆撃する日本軍に批判を強めていた。 日本は石油や兵器の材料の多くをアメリカに依存していた。しかし、アメリカには戦争当事国への戦略物資の輸出を禁止したアメリカ中立法があった。 もし、日本が宣戦布告するとアメリカはこの中立法を発動するおそれがあった。 結局政府は宣戦布告をしなかった。このたたかいを支那事変と称し、国際法上の戦争ではないと言う立場をとり続けた。
11月5日、およそ7万の増軍が上海の南、杭州湾に上陸を開始した。これを気に形成は日本軍有利に傾く。 日本軍7万増派の杭州湾上陸 このころ蒋介石は、アメリカやヨーロッパの国々に働きかけを強め、戦局の打開をはかろうとする。日記では「目的は多くの国々に日本への経済制裁をとらせることにある」と述べている。 蒋介石日記にある日本への経済制裁 この時期、戦争の拡大を懸念する欧米諸国がベルギーのブリュッセルで国際会議を開こうとしていた。 蒋介石はその場で日本の不当性を訴え、制裁措置を発動させようと考えていた。そのために上海でのたたかいに、欧米諸国の関心を集める必要があった。 蒋介石はドイツ軍事顧問団によって鍛えられた精鋭部隊に徹底抗戦を命ずる。 そのための舞台に選ばれたのが川沿いに建つ四行倉庫であり最大の激戦地となった。四行倉庫の対岸には欧米諸国の租界があったからだ。 上海での激戦の部隊となった四行倉庫 欧米のメディアは四行倉庫の攻防戦を撮影し、世界中に伝えた。これこそが蒋介石の狙いであった。 蒋介石の言葉が秘書の日記に残されている。「この場所を死守させる。そうすれば世界中のひとびとに感動を与えることができる」と。 しかし、ブリュッセルで開かれた国際会議は蒋介石の期待を裏切ることとなった。アメリカ、イギリスなどの国々は、日本との関係悪化を決定的なものにする経済制裁に踏み切ろうとしなかった。 日本の侵略行為が続く限り我々は抵抗を続ける決意だ(中国の演説) 四行倉庫の激戦は四日間で終わった。国際社会の支援を期待した蒋介石はここでドイツ式の精鋭部隊を失う。 日本軍は11月上旬、上海を陥落させる。 上海が陥落した後も、現地軍の司令部は敗走する中国軍を追撃するよう命令を下した。 つづく |