@はじめに
A盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出
B蒋介石と中国の戦略
C第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態
D顧問団助言の作戦とその展開
E上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗
F現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍
G蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状
H南京陥落と陸戦法規適用の判断
◆
現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍
とは言え日本軍の兵士は疲弊しきっていた。
それをよそに上海事変以降の現地司令官、松井石根らは、さらなる戦線の拡大に動き出していた。
上海派遣軍司令官 松井石根
◆松井石根
日中戦争前には予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰し、上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。その際に所謂南京大虐殺が発生したとされる。
事件の報を聞いたとき、彼は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた。」と嘆いたという。しかし、松井はその時点で指揮下の部隊に対する統制力を失っており、軍紀を回復することが出来なかった。
松井は中支那方面軍司令官を解任され、本国へ呼び戻された。 戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。翌昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。
松井は東京裁判で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、「b項-戦争犯罪、c項-人道に対する罪」で有罪となったため、厳密にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという誤った認識が浸透している。
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日本陸軍の軍令機関の変遷
日付 |
陸軍 |
根拠法令 |
1874年(明治7年)6月18日 |
参謀局 |
「参謀局条例」 |
1978年(明治11年)12月5日 |
参謀本部 |
旧「参謀本部条例」 |
1884年(明治17年)2月 |
1886年(明治19年)3月18日 |
参謀本部
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明治19年勅令 |
1888年(明治21年)5月12日 |
陸軍参謀本部 |
明治21年勅令第25号 |
1889年(明治22年)3月7日 |
参謀本部 |
明治22年勅令第25号・同第30号 |
1893年(明治26年)5月19日 |
明治26年勅令第37号 |
1933年(昭和8年)10月1日 |
昭和8年軍令海第5号 |
1945年(昭和20年)10月15日 |
(廃止)
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昭和20年軍令海第8号など |
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11月22日、松井は日本の参謀本部に一通の電報を送る。
松井石根曰く、「制令線に軍を留むるときは、戦機を逸するのみ、南京に向かう追撃は、可能なり」と。
「首都(当時は南京)さえ落とせば蒋介石は、屈服する」、松井はこのときに乗じて制令線を越え南京まで攻めることを進言したのである。
軍の上層部は、参謀本部名で現地に電報を発し現地軍の暴走に歯止めをかけようとした。
そこでは松井石根らが主張する南京への追撃は制令線を定めた命令の逸脱行為であり断念するように求めていた。
しかし参謀本部の中には、南京追撃に動こうとする現地軍と密かに呼応した将校達がいた。その中心となったのは、下村定陸軍参謀本部作戦部長であった。
陸軍参謀本部作戦部長 下村 定
11月24日、下村は大本営御前会議に出席し、昭和天皇に軍の上層部が決めた今後の作戦方針を説明することになった。
◆大本営
大本営会議は天皇、参謀総長(陸軍)、軍令部総長・次長・軍令部第1部長・陸軍大臣・海軍大臣によって構成され、内閣総理大臣、外務大臣など文官は含まれない。天皇の命令を大本営命令(大陸命・大海令)として発令する最高司令部としての機能を持つ。大本営は戦果に関する広報も行っていたが、戦況の悪化に伴い日本軍が敗走を続けると真実を伝えなかったり過小発表するなど情報操作を行ったとの批判がある(詳細は大本営発表の項参照)。
大本営の職員は殆どが参謀本部及び軍令部の職員であった。終戦に伴い1945年9月13日に廃止された。
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下村の回想録によれば、このときの下村は制令線を越えた進軍の予定はないとする軍上層部の計画を伝えることになっていた。しかし、下村は独断で次のように天皇に報告している。
「新たなる準備・体制を整え、南京、その他を攻撃せしむることも考慮いたしている」と。あたかも軍上層部が南京攻撃を想定しているかのような下村の報告であった。
下村定中尉回想録
しかし、下村はこの発言に対し、叱責はされたものの何ら処分されることはなかった。
何と現地軍は同じ11月24日、将校の説明文によれば、その日部隊は制令線の限界だった嘉興のを越え南京に向け出発している。
11月24日嘉興を出発し南京で進軍
11月24日嘉興を出発し南京で進軍
増派部隊の各師団が既に独断で南京追撃を開始していた。
一週間後の12月1日、軍中央は南京攻略命令を正式に命令した。
南京攻略命令 12月1日
現地軍の独走、そして軍中央部による追認、満州事変と同じ構図が繰り返された。
20万人を越える日本軍は一斉に南京に向かって進撃、このときの日本軍の決定により日中の戦争はなし崩し的に全面戦争へと拡大してゆくことになった。
南京への進軍経路1
南京への進軍経路2
◆南京攻略戦
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。
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つづく