「南京大虐殺」 その背景と経過を NHKスペシャルより探る D顧問団助言の作戦とその展開 青山貞一 2006年8月22日 独立系メディア E-wave Tokyo |
@はじめに
A盧溝橋事件の勃発と陸軍作戦本部の突出 B蒋介石と中国の戦略 C第二次上海事変に備える蒋介石軍の実態 D顧問団助言の作戦とその展開 E上海攻防戦と日本への経済制裁の失敗 F現地軍の暴走と参謀本部の追認による南京への進軍 G蒋介石のソ連援軍要請と日本軍の南京郊外での行状 H南京陥落と陸戦法規適用の判断 ◆顧問団助言の作戦とその展開 ドイツからの軍事顧問団のファルケンハウゼンが盧溝橋事件の半年前に作成した地図がフライブルグ軍事資料館に残されている。 盧溝橋事件の半年前に作成した地図 その地図を見ると、盧溝橋事件より前に、南京、上海より下の地域ではすでに防御陣地がつくられていたことが分かる。 南京、上海より下の防御陣地 ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼンは日本軍が上海に上陸するのを予測し、待ちかまえていたのである。 地図に青色で記されているのがすでに完成していた防御陣地である。ファルケンハウゼンは決戦を想定した上海の西に防御戦を引き首都、南京を守る計画であった。 中国北部で戦争をしても誰も注目しない。国際都市である上海で戦争をすれば世界中の関心を集め、国際世論を喚起できる。 蒋介石はドイツの軍事顧問団の作戦をもとに国際社会の世論を引きだそうとしたのである。蒋介石はたたかいがはじまる一年前の日記にこう記している。 世界各国の世論を引きだそうする蒋介石(日記より) 「アジアの問題はヨーロッパ、世界各国と共同して解決する。そして、侵略者日本を処置する」と。 侵略者日本 上海での戦いは激戦となった。主戦場となった上海郊外には、クリークと呼ばれる水路が網の目のように走り、ファルケンハウゼンに学んだ中国軍の作戦が展開される。 上海郊外に張り巡らされたクリーク クリークに足を取られ倒れる日本軍 金沢から出兵した第一師団は上海上陸後一ヶ月で一万の兵力を失った。 日本兵の当時の心境を記した陣中日記が2年前に発見された。 そこには暴支庸懲の四文字がある。 暴支庸懲とは、日本に逆らう中国を懲らしめるという意味であり、中国は一撃すれば屈服すると言う日本軍の考えと裏腹の現実があった。 国を懲らしめるという意味の暴支庸懲。しかし現実はその逆となって行く。 つづく |