◆青山貞一:日本のメディアの本質を現場から考える
バックナンバー
|
|
以下は今朝の読売新聞東京都多摩版に掲載された昨日(6/15)の東京地方裁判所八王子支部での圏央道建設差し止め裁判の記事の一部であり、私のコメントである。
....これより上は
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/news003.htm
を参照のこと。
■識者コメント■
青山貞一・武蔵工業大学環境情報学部教授(環境政策論)「事業者側は、なし崩し的に大部分の建設を強行してきた。判決では、国が主張する事業の必要性と公共性が最優先され、『道路が通れば道理が引っ込む』状況が変わっていないことが分かる。本来、環境影響を緩和するための保全策などで和解の道があってよいと考える」
屋井鉄雄・東京工業大学大学院総合理工学研究科教授(国土・都市計画)「判決にもあるように、圏央道整備の広域的な効果は大きい。計画策定に市民の意見を反映させる取り組みが十分でなかったことが反省材料としてある。今後はその効果の大きさが、乱開発につながらないよう、市民と行政が連携し、豊かで優れた沿線地域を計画的に形成することが望まれる」
(2007年6月16日 読売新聞)
|
一方、私が読売新聞に依頼されたコメントは以下である。分量は約400字と依頼され、実際に使うのはその一部と電話で言われていた。
東京で最も豊かな自然が残る奥高尾の山をトンネルで抜き、中央道とのジャンクションを建設するのが圏央道事業だ。すでに事業者側はなし崩し的に大部分の建設を強行してきた。
本裁判は、地元住民や自然・環境保護団体などによる自然・環境破壊を食い止めるための民事差し止め訴訟である。本訴訟には全国各地137名の弁護士が参加した戦後の環境裁判史上有数のものといえる。
原告側は所有権はじめ人格権、環境権、景観権、自然享有権など、環境破壊を未然に防ぐため諸権利を提起し、工事の差止めの司法救済を求めてきた。しかし、現実には裁判中も工事による自然環境破壊が進行していた。
判決では、未だ事業者が主張する道路事業の「必要性」と「公共性」が優先され、「道路が通れば道理が引っ込む」状況が変わっていないことが分かる。国、事業者による既成事実の積み上げを、司法が追認した形となっているといってもよい。
21世紀は環境の時代と言われて久しい。しかし、自然環境を破壊する巨額、大規模な道路事業が、科学・客観性に乏しい環境アセスをもとに進められている。環境アセスへの国民の信頼性がますます低下することを危惧する。
同時期に行われている東京大気汚染裁判では国と住民との間で和解が進んでいるが、本事件においても影響緩和策などで、和解の道が得られないものかと考える。
ちなみに米国の環境アセスでは99%完成した巨大ダムが希少種の魚が見つかったことにより使用停止となった例がある。
|
さらに、その後、本独立系メディアに青山がブログとして本件について書いたブログは以下の通りである。
◆
青山貞一:思考停止による司法の機能不全
〜圏央道差止裁判、東京地裁判決〜
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col10030.html
上記の3つを読み比べれば分かるように、読売新聞の記事における識者コメントは、青山が送った意見のごくごく一部を選択的に使用している。
もちろん、言っていないことはを識者コメントとはしていないが、その選択は記者とデスクのいわば裁量に任される。
判決後、概要を記者がFAXしてきた後、きわめて時間がないなかで執筆したコメントではあるが、当初送ったコメントを読めば読者は、それなりの背景、筋道を含め意見の内容を理解、認識してもらえる可能性があるが、記者やデスクにえぐり出されたコメントは、おそらくある特徴的な言葉を象徴的に使われている感が否めない。
その昔、東京湾横断道路(アクアライン)が完成したとき、テレビ朝日のスーパーJチャンネルからインタビュー形式でコメントを依頼された。ところが実際のニュースでは、私が述べた趣旨が180度逆の意味として放映された。
私はすぐに当時の報道局長に電話を入れクレームをつけたが、この種の問題は枚挙にいとまがないはずである。
一方、読売新聞に送ったコメントにさらに意見を加えたブログの内容はどうだろうか?
私がブログで追加したのは以下の部分である。
上記の大気汚染裁判では、すでに起こった幹線道路上を走行する自動車からの排ガスによる健康被害が民事の損害賠償及び国家賠償が争われている。この種の健康や環境の事後救済訴訟はまだしも、差し止め請求など未然防止は、民事、行政を問わず極めて勝訴率が低いだけでなく、事実上の却下状態が続いている。
国は一方で環境保全の重要性をいいながら、他方では国土交通省、旧道路公団などによる不要不急な幹線道路に数兆円を投入し、結果的に環境破壊のスプロールを起こしている。
過去10年の環境訴訟をつぶさにみると、相変わらず差し止め訴訟や国相手の訴訟はきわめて門戸が狭く、実質的に却下状態となっている。
その理由は、裁判官がヒラメ(上ばかり見ていること)であり、結果的に過度に国、行政の言い分をそのままみとめていること、また環境など科学技術が係わる理数系の訴訟に判事がまともに対応していないことがある。
であるなら今後は、環境問題、科学技術問題、医療過誤問題など、科学的な事件、行政訴訟などを別途、科学技術裁判所、行政裁判所などを設置して司法救済を図る必要があると思う。ドイツなどではそれらが一部であれ実現しているようだ。
筆者らが昨年春から国(総務省)相手に行っているPLC差し止め請求(行政訴訟)でも、ほぼ同じ構造の思考停止による司法の機能不全が起きている。
|
おそらく、この分野の出来事に関心がある読者は、それなりになるほどなと思われるに違いない。
要約すると、新聞、テレビという媒体、メディアは、紙面、時間が限られいると言う理由で、取材した内容のごくごく一部を報道している。そのため、極端な話、インタビューを受けた人間が話したことと180度ことなる趣旨の内容が放映されることもありうる。
また上記の圏央道の識者コメントのように、もう少し長くコメントを使ってくれれば、読者に伝わるのではないかと思うことが多々あるのである。
確かに新聞、テレビは紙面、時間が限定されているが、問題は必ずしもそこにあるのではなく、記者、ディレクター、さらにデスク等の価値判断によるスコーピングこそが問われているのである。
他方、Web、ブログは事実上、その種の制限はなく、意見の部分選択による誤報、情報操作、その結果としての世論誘導はないはずだ。もちろん、冗長だったり、執筆者自身のチェックの甘さによる問題はある。
この辺にも、現代メディアの本質的課題があるように思える。もっぱら、この意見の部分選択問題は、何も日本のメディアに限定したことではないが.....
つづく