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●2008年2月23日(土) 昼 車酔いは良くなってきたが、まだ本調子ではない。 ソレントから1時間20〜30分かかってやっとアマルフィに到着した。 50km足らずなのになぜ1時間半もかかるかというと、道路が狭い断崖絶壁にあり、しかもクネクネ曲がっているからだ。 それでも路線バスの運転手はかなりのスピードでその断崖絶壁を行く。もちろん対向車線が見えない場所も多い。そんな場合には、大きくクラクションを鳴らし、相手に合図を送る。 私たちのバスの走行ルートは、ソレント→アガタ(Agata)→ポジターノ(Positano)→フローレ(Furore)→アマルフィ(Amalfi)である。下の地形図でも分かるように、いずれも断崖絶壁だ。 ソレントからアマルフィへの地形図。断崖絶壁が続く ソレント半島及びアマルフィ海岸の主要地点 ○アマルフィ(Amalfi) アマルフィは50kmに及ぶアマルフィ海岸のサレルノ側(東側)にある。 アマルフィ海岸一帯には、上の地図にあるように、アマルフィ(Amalfi)以外に、ポジターノ(Positano)、マイオーリ(Maiori)、ミノーリ(Minori)、ラヴェッロ(Ravello)、プライアーノ(Praiano)、フローレ(Furore)、ヴィエトリ・スル・マーレ(Vietri sul Mare)など小さな町や地域が南斜面に宝石をちりばめたように点在している。 フローレからアマルフィまではこんな狭い道ばかり 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 これらの多くは、イタリア語でバエーゼと呼ばれる魅力的な小さなまちとして断崖絶壁の海岸線に点在している。 ところで、中世イタリアには、四大海洋共和国があった。それはヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサそしてここアマルフィである。 なかでもアマルフィは、地形上のユニークさから他を寄せ付けない魅力がある。海洋共和国、アマルフィは、何とかのローマ帝国が滅亡した後も地中海に君臨した。そのことだけを捉えても、アマルフィの往時の栄華が分かるというものである。 アマルフィは、かつての「アマルフィ海洋共和国」の中心地だったのである。 |
夢にまで見たアマルフィに到着。ご満悦の筆者! 撮影:Nikon CoolPix S10 上述のように、アマルフィには栄華を誇った海洋貿易をもとに富を蓄積した富裕な輝かしい歴史がある。 アマルフィには、今でも9世紀以来の各種の様式をもった建物、文化がある。またラッターリ山脈によって北からの冷たい風が遮断され、イタリアで一番て温暖な気候をもつ南斜面の段々畑で栽培されるレモン、オリーブ、ブドウなどの果物や野菜は特産品として有名だ。 それらすべてがユニークな地形と相まって世界にも希有な魅力を醸成している。おそらくアマルフィ海岸のバエーゼがもたらす景観は、世界広しと言え、どこにも類似するものがないオンリーワンの絶景、景勝であるといえよう。それが世界中から人々をアマルフィに呼び込む大きな魅力と原動力となっている。 ...... ところで、アマルフィ海岸一帯の文明的な見所は、キリスト教文明がイスラム文明と接触したことによる異文化交流の所産にある。 欧州にはキリスト教文明とイスラム文明がアマルガムとなったり、化合物となった地域はたくさんある。 スペインのグラナダ地方、トルコのイスタンブール地方、イタリアのシチリア島などは有名。実はイタリアのアマルフィ海岸地域でもこれが顕著だ。 シチリア島はじめソレントからバーリまでの南イタリアでは、モスリム、イスラム教の影響が建築物、建造物はもとより、生活から文化に至るまで、その痕跡が随所に大きく残っているのである。 このように、その昔、アマルフィ海岸一帯に存在したキリスト教とイスラム教の融合文化は、きわめて秀逸かつ個性的な建築様式をアマルフィで開花させてきたのである。 アマルフィ東はずれの建築物。いずれもデザイン、色彩ともにユニークだ 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 さらに、アマルフィ海岸一帯は、地図上では分からないほど、険しい山脈が連なっている。 とくにラッターリ山脈とティレニア海・サレルノ海に囲まれる地域でひとびとは歴史的に険しい山々の裾野から上段、また峡谷に降りる途中に石畳みの狭小な通路をつくり、それに沿って石の家が造られ、バエーゼと呼ばれる魅力的なまちをつくってきた。 その歴史的様相と景観は、中世から今日に至まで変わっていない。 アマルフィに到着後、私の車酔いは快方に向かい、思う存分、シャッターを切る。おそらくアマルフィだけで500枚は撮っただろうか。 ○アマルフィの歴史 ここで、アマルフィの歴史について少し触れてみよう。 アマルフィが最初に歴史に登場するのは6世紀の頃、海事力、穀物、内陸からの塩や奴隷、さらには木材の貿易として名を馳せた。 エジプトやシリアで金貨を鋳造し、ビザンチン帝国から絹を買い、西方に転売していた。 アマルフィの商人たちは、9世紀には金貨を使い土地を買っていたが、そのころ、イタリアは物々交換経済の時代であった。 8世紀から9世紀にかけて地中海貿易が復活したころ、gガエタ(Gaeta)とともに、東方とイタリア貿易を行っていた。そのころ、同じ海洋俊国家となるヴェニスはまだ揺籃期であった。そして、848年にはアマルフィの軍隊は教皇レオ四世とサラセンとの闘の援軍に出かける。 7世紀から1075年の独立共和国時代、アマルフィはピサやジェノバと国内の反映と海軍力を競い合っていた。 人口は約7万であり、10世紀末のマンソ(Manso)皇帝(966-1004)の頃にその絶頂期にあった。マンソ皇帝のもと、グアイマアル(Guaimar)四世支配の元、Salernitanに支配されていたわずかな時期をのぞき、アマルフィは独立を維持した。 1073年、アマルフィはアプリア(Apulia)のノルマン(Norman)伯爵の支配下に落ちる。しかし、そこでもアマルフィには多くの権利が与えられていた。南イタリアで野営するノルマン人の餌食となり、それが彼らのおかれた当時の地位であった。 アマルフィの東端。アマルフィには砂浜の海岸がある。 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 だが、1131年、要塞の要となることを拒否したシシリア王のロジャー(Roger)二世によって(アマルフィは)次第に権利を失っていた。 教皇インノセント(Innocent)二世のためシシリア王ロジャー(Roger)と闘った聖ローマ皇帝Lothairは、反教皇のAnacletusの側につき、46隻のピサの船の支援を得て1133年に彼を投獄したのである。 まちは略奪され、Lothairは、そこで発見されたJustinianのPandectsを戦利品の一部と宣言した。 13世紀から14世紀にかけ、アマルフィは人口の多い都市であった。1135年と1137年にはアマルフィは、、ピサに支配され次第にその重要性を失っていった。しかし、Tavole Amalfitaneとして知られるアマルフィの海事規則(Maritime Code)は1570年に至るまで地中海地域において広く認められていた。 一方、文化面では、中世において、アマルフィは法律と数学の学校が栄えたことで有名である。ヨーロッパに海洋コンパスを最初に紹介したとしたとされているフラビオ・ジョイア(Flavio Gioia)はアマルフィの出身であると言われている。 1343年、まちの低地や港は津波によって大半が破壊された。 今の港は観光用であって、ほとんどその重要なものではなくなっている。 つづく |