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法門寺百度百科4

(宝鶏市、陝西省)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月、更新:2020年4月1日
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陝西省宝鶏市 法門寺詳細中国百度百科)
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 これは中国陝西省宝鶏市にある法門寺の詳細解説(出典・百度百科4)です。

◆法門寺(百度百科4)

  

◆唐王朝時代の供養


宝鶏法門寺 Baoji Famen Temple
出典:百度百科


宝鶏法門寺 Baoji Famen Temple
出典:百度百科

 唐王朝時代は200年以上にわたり、高宗(650-683)以降、武后(則天武后690-705)、中宗(684)、粛宗(756-762)、徳宗(780-805)、憲宗(806-820)、懿宗(859-873)と僖宗(873-888)と八大の皇帝が、仏の指の仏舎利を供養しました。

 毎回、仏舎利を迎える際の勢いは盛大で、朝廷も官民ともに大いに盛り上がり、皇帝は最高レベルの礼拝を行いましたが、これは極めて希なことでした。歴史によれば、「三十年に一回開かれると、古い年に別れを告げ、新しい年を迎え人々は豊かになりまた、人の和ができる。」とされ、また、戦争はなくなり、国は安泰、民は平安となり、さら気候も順調で作物の生長によいと言われました。

 咸通15年(紀元874年)1月4日、唐の僖宗李儇(第21代皇帝)が最後に仏舎利を送ったときに、仏教の儀軌(密教で、仏・菩薩(ぼさつ)・諸天などを念誦(ねんじゅ)・供養する方法や規則。)に基づき、仏の指の仏舎利と数千件に及ぶ世界的に希少で珍しい宝をすべて塔の地下宮に封入し、唐密教(空海を祖とする真言宗の密教)の曼荼羅を用いて祭壇を作り供養しました。


第一枚佛指舍利
出典:百度百科

 唐時代の諸皇帝は仏法を篤く信仰し、舎利に対しても真摯に供養を行い、大乗・小乗仏教の寺院をともに広め、顕教、密教ともに融和し、法門寺を皇家の寺院として使い、世を挙げて仏教の聖地として仰ぎ見て尊敬し慕う寺としました。仏塔は「護国真身宝塔」として知られています。

 唐時代末には、聖なる仏の骨の歓迎は益々過熱化していきました。仏の骨を迎えることは、すなわち、30年ごとに塔の基礎の地下にある地下宮の仏舎利を長安の宮殿に迎えて仰ぎ見る(礼拝する)ことに他なりません。その最大規模のものは、唐の懿宗(いそう)第20代皇帝時代咸通14年(873年)のことでした。このときの仏の骨の歓迎(行事)は、二年前から準備して行われました。

 当時、都である長安から法門寺までは200里(約100km)以上の距離があったので、昼夜を問わず馬車を用い、途中で飲食の提供を受けるので、「布施の必要がない」と言われていました。

 仏の骨をお迎えするための儀仗馬車には立派な甲冑とともに刀・杖を完璧に備えた皇室の近衛軍が護衛し、文武大臣の護衛、お抱えの高僧による信奉、旗を高く掲げて、太鼓や楽器を打ち鳴らし、沿道では多くの善男善女の信者が礼拝しました。

 長安城内の各街路では、絹織物の紐を結び建物を飾り立てました。懿宗皇帝も、城楼の門を巡り、仏舎利を迎える儀式を歓迎しました。百人の役人も沿道に並び、歓迎の礼拝を行いました。仏の骨はまず、九店に到着すると三日間そこで歓迎を受け、その後再び、都の中の寺院を回って供養を受けます。

 百人の文官・武官と豪族や金持ちたちは競って金や錦の布施を行い、周囲の高齢の百姓たちは子供たちをつれて礼拝に駆けつけ、中には腕や指を切断して仏(の骨)に対する敬虔を表す者たちも居ました。

 その後、次に仏の骨を歓迎するまで、地宮は閉鎖去れ、1113年間の長い間世間から隔絶されました。法門寺は唐の時代に災いに見舞われ、唐の武宗(第18代皇帝:840-846)時代の会昌5年(845年)に大規模に仏の破壊を行いました。このことを歴史上、「会昌法難」(会昌の廃仏)と呼んでいます。

 唐の武宗は一度、仏指の仏舎利の破壊を命じましたが、その前に僧達はいくつかの仏舎利の偽装品を作成し、皇帝の命令を適当にごまかして逃れ、そうして釈迦牟尼物の真身の指の骨を隠し持つことが出来ました。

 金の人々は、「詩碑」と刻み、寺の塔を大いに褒め称えました。その詩は「三級風簷壓魯地,九盤輪相壯秦川」(3層の風が軒先に当たって地面に打ち付け、9枚の円盤が互いに力強く秦川にあり?)というものです。


法門寺(百度百科5)
つづく