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2013年9月12日、北軽井沢別荘の近くにある常林寺(じょうりんじ)という禅宗のお寺にでかけた。 常林寺(現住所、群馬県吾妻郡長野原町大字応桑547)には、今まで何度もでかけている。それには理由がある。 里山のこんもりした森の中にたたずむ常林寺 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2013-9-12 常林寺全景 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 常林寺は、旧小宿村近くにあるが、その周辺にはすばらしい里山があり、棚田があり、そして小宿川の渓流がある。何気ない小自然だが、これが何とも心地よいのである。まさに自然と人間との共生の原点を見る思いがするのである。 常林寺の周辺。そこにはすばらしい里山があり、棚田がある 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 そして小宿川の渓流がある 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 ところで、この常林寺は、1783年、天明3年に浅間山が大爆発を起こしたとき、集落もろとも火砕流で埋没している。大噴火前、常林寺は、小宿川川を挟み反対側にあった。 以下は、1783年、天明3年に浅間山が大爆発をの模様を書いた記録の一部である。 ◆天明3年(1783年)浅間山噴火 天明3年(1783年)、4月から7月初旬(旧暦)まで断続的に活動を続けていた浅間山は、7月8日(旧暦)に大噴火を起こした。 このとき発生した火砕流に嬬恋村(旧鎌原村)では一村152戸が飲み込まれ483名が死亡したほか、群馬県下で1,400名を超す大きな犠牲者を出した。 天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村 上側にあるのが浅間山。下側が鎌原村 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5 出典:鎌原村郷土資料館 天明3年の浅間山大噴火の経過 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5 出典:鎌原村郷土資料館 浅間山の大噴火により大量の溶岩と火山灰が噴出し、溶岩流は北側の吾妻川流域へ火砕流となり山腹を流下した。 流下した溶岩は三派に分かれ、一派は東方の分去り茶屋に、もう一派は西方の大笹方面に、残りの一派は他の二派の中央を真直ぐ北流した。 流下した溶岩は、大きな火砕流となって山腹を走り、分去り茶屋に向かったものは、小熊沢川と赤川に流れ込み、旧小宿村・常林寺を経て芦生田集落を埋没させた。 天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村 上側にあるのが浅間山。下側が鎌原村 撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.5 出典:鎌原村郷土資料館 大笹方面に流下したものは、大前で吾妻川に流れ込んだ。 そして中央を北流したものは、旧鎌原村を直撃し一村を壊滅させた上で、現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下した。 浅間山噴火による火砕流の流下により旧鎌原村では一村約100戸が呑まれ、483名が死亡したほか、長野原210名、川島128名、南牧104名など多くの犠牲者を出した。 以下はその一部である。
天明3年の浅間山大噴火では、常林寺は小宿集落にあり火砕流による死者数57人、流家数60戸であったが、浅間高原北側の鎌原村(現在、嬬恋村)だけで、死者が483人、火砕流による流家数が152戸もあった。 下は、この観音様に逃げ込んだ村民、数10名が生き残ったとされる鎌原観音である。この観音堂は私達の別荘からも近く、今まで別荘に来る度にお参りに出かけている。
つづく |