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天明の大噴火以降、常林寺は、「天明浅間押し三百年記念碑」の記述にあるように、今井村の仮寺から二十余年、信徒が汗血を注いだ伽藍が再建される文政年間まで四十余年の苦難の歩みを辿っている。
文政年間に再建された常林寺であるが、その後、小宿川のほとりに移った常林禅の寺門前に泥流に流れ去った三原谷三十四番霊場第六番穴谷観音を再興している。 下の写真は、「天明浅間押し三百年記念碑」の記述にあるように、浅間山大噴火の火砕流で川原畑近くの吾妻川まで流れ落ち、後に見つかったという鐘楼である。鐘楼にあった龍頭はなくなっていたが、明治43年の水害後に発見されている。 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2013-9-12 下は鐘楼の前の青山貞一。この寺と自然との融合、共生は見事である! 撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2013-9-12 本堂と鐘楼のおくにある一列に並べられた小さな仏様の一番左の碑に刻まれた年代をみたところ、「享和元年」とあった。 享和元年と言えば、天明3年(1783)の浅間山噴火から18年後(1801)にあたる。きっとその間になくなられた村民のためにたくさんの石仏や道祖神、石碑などが作られ神社やお寺に奉納されたものだと思われる。 常林寺の南はずれにあった石仏や道祖神の数々 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-5-3 ところで、以下の碑文にあるように、浅間山北山麓一帯は、江戸幕府の御林として知られ関係区域諸村の入会地であり、そこから薪炭、馬草を売ることで集落の現金収入としてきた。しかし、この入会地に依存した天恵の資源からの収入も隣村との間で争を生じることになったという。 争いを解決するために江戸幕府に直訴しているうちに、明治の世を迎えることになり、入会地の全区域が国有林に編入されるを知り 集落一致結束し国に払い下げ運動を起こし最終的にその目的を達した。 それ以来、(森林)組合を設立し、維持植栽に尽してきた。そして天正十一年、長野原・嬬恋における公有林と個人有林に区分するに際して子孫の大きな受益となったことは、先祖の偉業であり、歴代役員らの功労によるものであるとし、三百年の積恩を後生に伝えるため常林寺一角に此碑を建てたとある。 南本山功労者顕彰碑 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12
現在の常林寺の本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 現在の常林寺の本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 常林寺本堂の天井には、すばらしい龍の絵が描かれている。 現在の常林寺の本堂 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 一方、常林寺には、嬬恋村指定の重要文化財の「享禄の経筒」がある。この経筒は、明治44年、嬬恋村大字三原字岩井堂地内で畑造成中に発見されたものである。 高さ約10.5cm、直径約4.5cmの盛蓋銅製円筒型で、筒身の側面には、「越前国(福井県)平泉寺の聖(布教者)弘朝が享禄三年(1530)法華経を写経して奉納した」旨が記されているという。 この経筒の存在は、室町時代(戦国期)、北陸地方に拠点を持っていた白山修験者が嬬恋村地域にも波及していたことを示すものである。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12
下は境内から入り口の方向を撮影したもの。年代物のすばらしい赤松もあった。 常林寺境内から入り口の方向を撮影したもの 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-5-3 つづく |