たまだれの滝で遅い昼食を撮ったあと、来た道を引き返し、今度はパノラマラインの北ルートを門貝まで東に走ることとした。
このあたりは、地形的に見ても美しい光景が続く。ただし、今回はパノラマライン北ルートで交通事故(衝突事故)が起き、途中からパノラマラインの北ルートから西窪に行かざるを得なくなった。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
下の写真はパノラマライン北ルートから南ルートを見たところである。
パノラマライン北ルート 古永井地区から長野県側の角間山を望む
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
下はパノラマライン北ルート沿いにある園芸試験場近くで撮影したものであるどっちをみてもキャベツ畑ばかりである。
パノラマライン北ルート 北ルートから南ルート方面を見る
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
◆パノラマライン
群馬県西部の嬬恋村のパノラマラインには浅間山麓を通る南コースと四阿山、万座山、本白根山、草津白根山の南山麓を通る北コースのふたつがある。
いずれも幅員7m、2車線、南北コースあわせた道路の総延長は約30kmもある。東京23区がすっぽり入ってしまう規模である。しかも、これらはいずれも広域農道を高規格化としたものである。
何でもガット・ウルグアイ・ラウンド対策の一環としてこの広域農道をつくったらしい(下の看板参照)。しかし、圧倒的大部分の作柄がキャベツの嬬恋村がなぜ、ウルグアイ・ラウンドなのか、よくわからない。
通常の広域農道は幅員が5m程度のはずだが、パノラマラインと呼ばれるこの広域濃度は約7mもあり、舗装も上等だ。
ひょっとして昔からあった農道を拡幅し、用地費や事業損失費(営業補償)の名目で農地の所有者(農民)に公費を支払うことと、農業土木業者に工事費を払うことが<ウルグアイ・ラウンド対策対策費>だったのではないかと勘ぐってしまう(笑い)。
というのも、片道30kmを走って、対向車線を走っている車は多くて10数台であったからだ。日本国得意の<ためにする公共事業>の典型のような気もした。
■ウルグアイ・ラウンド(Uruguay Round、1986年 - 1995年)
世界貿易上の障壁をなくし、貿易の自由化や多角的貿易を促進するために行なわれた通商交渉。 ウルグアイ東方共和国の保養地プンタ・デル・エステで1986年に開始宣言されたことからこの名がついた。
この協議では、サービス貿易や知的所有権の扱い方、農産物の自由化などについて交渉が行われた。中でも農業分野交渉が難航し、将来的に全ての農産物を関税化に移行させること、最低輸入機会(ミニマム・アクセス)を決定するにとどまり、完全な自由化には至らなかった。
出典:WIkipedia |
本当にこれほど立派な道路がこの地に必要かどうかは疑問だが、せっかく立派な道路があるのだから、何度か往復してみた。
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下は今や全国区になった?「愛妻の丘」から阿四山麓の南端を望んだところの写真である。標高は1200〜1300mと結構ある。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
パノラマライン北ルート 有名になった「愛妻の丘」
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
「愛妻の丘」からは田代湖が見える。田代湖は東京電力の水力発電所用の人工湖である。
田代湖には過去何度も出かけている。秋の紅葉の季節はとりわけすばらしい。田代湖畔のカラマツ林は格別である。
パノラマライン北ルート 田代湖が見える
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2012−9−5
◆秋の田代湖
嬬恋村の田代湖
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.11.1
嬬恋村の田代湖周辺のカラマツ(林針葉落葉樹)。ときまさに紅葉。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.11.1
嬬恋村の田代湖周辺のカラマツ林。ときまさに紅葉。
背景にある山は浅間山。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10 2008.11.1
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下はバラギ湖近くの茨木山方面を望んだところ。
パノラマライン北ルート 真っ青の夏空が美しい
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
実はこのパノラマライン北コースの北側に、すでに廃鉱となった4つの硫黄鉱山が静かに眠っている。いずれも1400m〜2100mの山脈の南斜面にある。2010年と2012年の夏から秋に、何度かに分け@石津鉱山、A白根鉱山、B吾妻鉱山、C小串鉱山の跡地を探索したが、@、A、Bはいずれも夏草が生い茂る山の中腹にあった。またCの小串鉱山は、群馬県と長野県の県境にある毛無峠(けなしとうげ)から2kmほどのはげ山の谷沿いにあった。
嬬恋村にあった4つの硫黄鉱山の位置。いずれもパノラマライン北ルートの北部にある
出典:グーグルマップをもとに筆者が作成
◆嬬恋村の4つの硫黄鉱山の概要
下は国土地理院の地図に見る他の4つの硫黄鉱山。
●石津硫黄鉱山沿革
昭和7年 北海道硫黄鰍ノより鉱区が買収、発足(米無鉱床)
昭和15年 精錬施設が竣工、当時は小串鉱山の支山として扱われる
昭和22年 生産設備拡大、石津鉱業所として独立、石津小中学校設立
昭和24年 従業員寮設立
昭和31年 ベルトコンベアーが竣工、坑道からの運搬系統の機械化進む
昭和38年 城山鉱床発見
昭和45年 小串鉱山と一部の設備を統合
昭和46年 閉山
出典:コバルトブルーの鉱泉が湧く廃墟「石津硫黄鉱山跡」探検記
石津硫黄鉱山
白根林道は石津硫黄鉱山跡地を起点としている。昭和43年度に起工
撮影:池田こみち、Nikon CoolPix S10, 2010年8月
林道ぞいに石津硫黄鉱山の残骸が残っていた
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
●白根硫黄鉱山の沿革
昭和8年 白根鉱山創業
昭和46年 閉山
本鉱山は文献調査未了
白根硫黄鉱山 出典:国土地理院
●吾妻硫黄鉱山の沿革
明治41年 吾妻鉱山発見
大正3年 群馬硫黄鰍ェ鉱業権獲得
大正6年 吾妻硫黄鰍ェ鉱業権引継ぎ
昭和11年 鉱山全盛期・当時の硫黄採掘量は国内4位
昭和14年 帝国硫黄鉱業鰍ノ経営権譲渡
昭和16年 吾妻小学校開設
昭和35年 鉱山集落の最盛期・292戸人口1318名
昭和46年 閉山
出典:コバルトブルーの鉱泉が湧く廃墟「石津硫黄鉱山跡」探検記
吾妻硫黄鉱山 出典:国土地理院
撮影:鷹取敦
●小串硫黄鉱山の経緯
大正5(1916)大日本硫黄轄h芻z山として採掘開始
大正6(1917)東洋硫黄鰍ノ経営委譲
昭和4(1929)北海道硫黄鰍ェ買い受け
昭和9(1934)尋常小学校小串分教場開校
昭和12(1937)大地滑り発生。死者245名
昭和13(1938)操業再開
昭和15(1940)小串文教場に高等科設置
昭和21(1946)小串鉱業所労組設立
昭和28(1953)毛無隧道貫通。須坂万座間の定期バス運行開始
昭和32(1957)鉱山の最盛期。従業員625名、硫黄生産年間2万3千t
昭和33(1958)希望退職募集。61名の人員整理。
昭和38(1963)小串小・中学校生徒数最高の296名、教師15名
昭和40(1965)村立小串幼稚園新築開始
昭和43(1968)小串地区からの集団移住地「緑丘」宅地造成開始
昭和44(1969)小串小・中学校体育館完成
昭和46(1971)閉山
出典:コバルトブルーの鉱泉が湧く廃墟「石津硫黄鉱山跡」探検記
小串硫黄鉱山 出典:国土地理院
毛無峠にある小串鉱山に送電していた鉄塔跡
撮影:鷹取敦 2011年8月13日
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8
下の写真の左側の薄い茶色部分が小串鉱山跡地である。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8
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下はパノラマライン北コースの「上の貝地区」手前。
パノラマライン北ルート 上の貝地区 高原の丘近く
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8
この当たりで交通事故でパノラマライン北ルートは、通行禁止となり、やむなく農道を通って国道144号線の西窪近くに降りた。どうも農業用トラクターに小型乗用車が突っ込んだらしい。
事故処理中の群馬県警
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2012−9−5
事故現場近くのキャベツ畑にあったかわいらしい道祖神。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2012−9−5
下は、パノラマライン北ルートと併走する国道144号線の西窪地区。浅間高原の北端にあたり、20−30mの断崖絶壁が国道沿いにつづく。日本のカッパドキアか?
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2012−9−5
◆日本のカッパドキア、嬬恋村西窪地区の断崖
西窪地区から断崖を望む
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
西窪から見る地形は写真のように非常に特異である。真夏なので樹木が生い茂っていて岩肌がよく見えないが、冬に見るとまるでトルコのカッパドキアの地形に似ている部分もある。崖の高さは約100mある。
西窪地区から断崖を望む
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8, 2010年8月
下の写真は1996年8月、トルコのイスタンブールで国連ハビタット2会議が開催されたとき、青山、池田で参加した際にカッパドキアで撮影した写真である。
トルコのカッパドキアの特異な地形
撮影:青山貞一、Asahi Pentax, 1996年8月
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西窪地区にはスーパーがあり、そこで8日午前中までに使う食材を買い込み、別荘に戻る。それでも、まだ夕食には早いので旧六合村の赤岩にある「長英の隠れ湯」という日帰り温泉に行く。
つづく |