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真夏の群馬・栃木短訪

F旧六合村の「冬住みの里資料館」
青山貞一
掲載月日:2012年9月12日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁

 ◆特集:真夏の群馬・栃木短訪 2012.9.5〜9.8
@世界のクマ縫いぐるみ博物館  G奧草津の「チャツボミゴケ」公園
A鹿沢の「かえでの小径」  H庭山由紀・前桐生市議インタビュー 
B鹿沢の「たまだれの滝」  Iくだんの桐生市訪問
Cパノラマライン北コースと硫黄鉱山跡  J一度来たかった「足利学校」
D旧六合村の新名所「世立八滝」  K吉田松陰も来ていた「足利学校」
E群馬県企業庁の水力発電  L「足利学校」の希有な文物
F旧六合村の「冬住みの資料館」

 9月6日、旧六合村の湯川発電所から国道405号線から国道292号線に戻り、旧六合村役場まで降りる。

 この途中に、いつも旧六合村を通るたびに気になっていた「冬住みの里資料館」がある。今回はじめて資料館に立ち寄ってみた。



 今まで、この資料館は旧六合村のお役所の資料館かと思っていた。しかし、そうではなくてもともとこの地に住んでいた市川さんという民間人が先祖から引き継いだ江戸から明治にかけての文物を希望者に公開しているものであることが分かった。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

◆六合村の由来

 旧六合村はその昔は草津村の一部であった。明治時代、町村制の発布により、小雨、草津、前口、太子、日影、生須、赤岩、入山の8つの字(あざ)が合併して草津村となった。

 明治33年、草津村が2つに分村、草津、前口の二大字は草津に、小雨、太子、日影、生須、赤岩、入山の六大字は六合になった。

 六合を「くに」と呼ぶのは古事記の「天地創造の東西南北天地をもって国となす」に由来するとのこと。このように、草津町と旧六合村はもともと兄弟関係となっている。

旧六合村の歴史

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、吾妻郡草津、前口、
     小雨、赤岩、生須、太子、日影、入山の8箇村が合併し、
     草津村が誕生。
1900年(明治33年)7月1日 - 草津村のうち、小雨、赤岩、生須、太子、
     日影、入山が六合村として分立する。草津、前口は草津町となる。
1945年(昭和20年)1月2日 - 日本鋼管群馬鉄山専用線
     長野原 - 太子間開業。
1952年(昭和27年)10月1日 - 日本鋼管群馬鉄山専用線を
     長野原線に移管。
1954年(昭和29年)6月21日 - 長野原 - 太子間旅客営業開始。
1963年(昭和38年) - 群馬鉄山が閉山。
1966年(昭和41年)10月1日 - 長野原 - 太子間貨物営業廃止。
1970年(昭和45年)11月1日 - 長野原 - 太子駅間営業休止。
1971年(昭和46年)
 3月7日 - 長野原線が改称し吾妻線となる。
 5月1日 - 吾妻線 長野原 - 太子間廃止。
2010年(平成22年)3月28日 - 同郡中之条町と合併

六合村に縁がある著名人

 
・真田昌幸  岩櫃城攻撃にあたり、暮坂峠越えのルートをとっている。
・高野長英  逃亡中に一時、赤岩地区に隠れ住んだと伝えられる。
・佐久間象山 沓野日記で資源調査のために六合村北部地域を訪れている。
・若山牧水  みなかみ紀行で六合村を訪れている。

◆冬住みの里の由来
 
 冬住とは、草津の人々が酷寒をさけるため冬の間を六合村で暮らしたことから、明治時代以前より冬住の里と呼ばれていたことに由来している。

 六合村役場前にある「冬住みの里資料館」は、この地の名主だった市川家の蔵や母屋を活用し、往事のたたずまいを感じることができる。

 展示されている資料や文物は、当時、草津を訪れた多くの文人や政治家などらが残した美術工芸品や暮らしぶりがわかる民具や文献などが多数ある。

 大正時代以前、草津までの往来は暮坂峠を通るのが主要ルートであった。雪が降ると自由に通行できなくなり、湯治客も途絶えてしまう。そのため、その季節になると、草津で旅館を営む人々は戸を閉めて、小雨まで下りた。

 小雨に降りる日は11月8日、草津に上がる日は5月8日と堅く守ることが決められていたようだ。小雨地区の標高は700m位。草津との標高差は400〜500m位あることになる。

 小雨は草津に比べて気温は3℃位高いはずだ。それに加え、小雨は東斜面の陽当たりの良い場所なので体感温度はもっと暖かく感じるかもしれない。

 草津温泉の旅館の経営者は春から秋には草津で宿を営み、冬は小雨に移り、来るべき春に備えて、湯治客の生活用品の準備、土産品づくりをしていたという。

●資料館について

 資料館は、代々文物を受け継いできた市川さんの先祖が、蔵を利用してそれらの文物を維持管理するとともに、一般に公開している。

 具体的には、資料館見学料大人500円を支払うと市川さんが学芸員よろしく蔵の鍵を開け、文物について案内しながら説明してくれる。


冬住みの里資料館の館長でもある大黒屋の市川ご夫婦と池田こみちさん
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012ー9−6


冬住みの里資料館の館長でもある大黒屋の市川ご夫婦と青山貞一
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012ー9−6

 文物のなかには、草津温泉関連が中心だが、江戸時代や明治大正年間の非常に貴重な資料、絵画、地図、貨幣、漆器、陶磁器、着物など多岐にわたっており、興味が尽きない。

 以下にそのごくごく一部を紹介するが、何でこんなものがここにあるのだろうかと、思える文物が多くあり、市川さんの見識の広さに驚かされる。

 また蔵そのものを資料館としているため、温度、湿度、日射などの関係から文物の保管状態がきわめて良いことも特筆される。

 3つの蔵を順にまわり、説明を受けた後、母屋に写り、お茶を飲みながら、話をした。奥様が入山のキュウリを一夜漬けしたものを出して下さり、美味しくいただいた。すると、奧からそのキュウリをお土産にとお持ちいただき、恐縮。


入山キュウリ
出典:群馬県農政部蚕糸園芸課


 下は、江戸初期の世界地図。この7月、スコットランドに出かけたとき、やはり資料館同様、民間人が開設したエジンバラ博物館で同じ地図をみた。またNHKが放映した「悲劇の女王メアリースチュアート」という番組でも、同じ世界地図をみた。そんな地図か冬住みの里資料館にあるとは、それだけでもびっくりである!


 草津温泉で最も古い温泉と言えば、草津温泉山本館本館だろう。弥次さん北さんの東海道中膝栗毛で知られる文政の作家、十返舎一九が、「山本十右衛門はんじゅうのゆやどなり」と、方言修行善光寺草津温泉道中金草鞋に記したとされる老舗宿、それが草津温泉山本館である。

 草津温泉のシンボル湯畑の前に、ひときわ目立つ江戸時代旅籠調の旅館である。創業江戸時代、数寄屋造りの建物は大正時代の建築だが、下の図の塀に囲まれた建物はそのころの草津温泉街の外国人用の街区とのこと。



◆草津温泉の歴史

 開湯の歴史は古く、日本武尊や奈良時代の名僧行基、源頼朝がそのはじめとの伝説を持つほど、古くから知られた湯治場である。

 源頼朝が浅間山で狩りを行なった際に、木曽義仲の遺児を草津で匿っていた細野氏に出会い、湯本の姓を与えて地頭とした、との記載を持つものもある。

 確実な史料への登場は室町時代の文明4(1472)年に浄土真宗の名僧蓮如が当地を訪れたことを記すものであり、この頃にはすでに全国に名の知れた湯治場となっていたようである。

 戦国時代には、豊臣秀吉が徳川家康に草津入湯を勧めた書状なども伝わっている。

 江戸時代に入ると、初期には真田氏の沼田藩下に、後に天領となり幕府の直轄支配を受けている。交通の便はあまり良くなかったが、年間1万人を超える湯治客で賑わったという。60軒を超える湯宿があり、幕末には「草津千軒江戸構え」といわれたほど栄えていた。

 明治時代に、お雇い外国人として来日したドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツによって、その良さが再発見され、大正時代には軽井沢から草津まで軽便鉄道(草軽電気鉄道)が開通した。

 さらに後に高崎や渋川からバスも乗り入れるようになった。長野原線(現吾妻線)が長野原駅(現長野原草津口駅)まで開業したのは昭和21(1946)年である。

出典:http://www.kusatu.net/onsen-rekishi.html



 湯畑から光泉寺に続く階段の途中に湯善堂があり、そのすぐ隣に月を象った碑が見える、これが小林一茶の句碑である。「湯けむりにふすぼりもせぬ 月の貌」という草津に寄せた句には、ほのぼのとした味わいが感じられる。江戸から草津までの旅は「草津道の記」に綴られている。下はその小林一茶像と書類。







 隠れキリシタンを通報したものに報償として銀100−500枚を渡すという聖徳9年の奉行の告知文



 以下は池田こみちさんのコメント。

 「冬住みの里資料館の母屋は半分が資料館、半分が市川さんご夫妻のお住まいとなっています。明治初期に建てられた立派な建物で、なんと言ってもその大黒柱の太さは、おそらく日本一ではないかとのことですが、ほんとうに立派です。ご主人が寄りかかっている太い黒光りした柱です。二階まで通っていて、家をしっかり支えています。冬は雪も降る寒い地域ですが、資料館の暖房は炬燵だけで過ごしているとのことでした。

 驚くのは蔵にしまわれていた文物のジャンルの広さです。いかに草津温泉が日本中からお客様を集めていたか、また、著名人が多く訪れ温泉を楽しみ、湯治をしていたかがわかります。当時の一般人は到底使うこともない、見ることもない、りっぱなお道具類も多々あります。輪島塗の漆器は、土蔵での保管が適しているため、色もつやもまったく当時のままの姿をとどめていて、びっくりしました。

 入山きゅうりの塩漬け(写真添付:出典 群馬県農政部蚕糸園芸課)は、冷たく冷やされていて塩加減も口当たりもまさに抜群。私たちはよく鎌原観音で、地元のお年寄りがお参りするお客さまに、鎌原きゅうりを同じようにして振る舞っているので、なじみがあったが、それぞれの里ごとに地場の野菜が大切に守られているのはとてもうれしいことです。鎌原きゅうりも同様に一夜漬けで頂きます。来年の夏には私たちもさっそくまねして鎌原きゅうりの一夜漬けを作ってみようと思います。」


つづく