厳寒のロシア2大都市短訪 ロシア文豪 プーシキン 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年3月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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ロシア短訪・総目次に戻る ◆ロシアの文豪 19世紀はロシア文学の黄金時代 プーシキン 写真ギャラリー ゴーゴリ 写真ギャラリー ツルゲーネフ 写真ギャラリー ドフトエフスキー 写真ギャラリー ト ルストイ 写真ギャラリー チェーホフ 写真ギャラリー ◆アレクサンドル・プーシキン Александр Сергеевич Пушкин (1799年6月6日 - 1837年2月10日) 『アレクサンドル・プーシキンの肖像画』(キプレンスキー作、 1827年、トレチャコフ美術館所蔵) Source:Wikimedia Creative Commons
ニコライの創設した秘密警察である皇帝官房第三課は、長官アレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵のもとでプーシキンへの監視を行いました。結婚の前年の1830年には、ボルジノにてロシア初の短篇小説集『ベールキン物語』、叙事詩『コロムナの家』、『ヌーリン伯爵』、韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』を完成します。 1831年、ナターリア・ゴンチャロワと結婚します。プーシキンとナターリアの間には、1832年に小説『アンナ・カレーニナ』のモデルとして知られる長女マリア、1833年に長男アレクサンドル、1835年に次男グリゴリー、1836年に次女ナターリア(孫はゾフィー・フォン・メーレンベルク)の、計2男2女が生まれました。 ナターリア・プーシキナ、アレクサンドル・ブリロフ画、1831年 Source:Wikimedia Creative Commons 1833年、オラルとオレンブルクを訪問します。 1836年、雑誌『同時代人』を創刊。ニコライ1世の強権的な専制政治の圧政下、検閲や発禁処分など言論への弾圧に反発します。同年11月、『大尉の娘』を第4号に発表。その後、低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるが、この申し出を、名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして、屈辱と受け取ります。 プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人のジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせ、やがて、プーシキンは妻に執拗に言い寄るダンテスに決闘を挑み、1837年1月27日、ペテルブルグ北郊のチョールナヤ・レチカで決闘を行いました。 この決闘で受けた傷がもとで、その2日後に息を引き取りました。政治的な騒動を恐れた政府は、親しい者だけを集めて密かに葬儀を執り行いました。遺体はミハイロフスコエ付近のウスペンスキー大聖堂の墓地に埋葬されました。 ガウ画『ナタリヤ・プーシキナの肖像』(水彩画・1840年代)逸話 Source:Wikimedia Creative Commons 決闘によって死ぬ以前、プーシキンは強運の持ち主として知られ、数多くの決闘で、自分は一切撃たず、相手に撃たせ、いずれも弾が外れ、当然の如く笑って済ませていたという逸話がいくつかあります(死ぬこととなる決闘においても、出血して怒りの形相だったのが、最後の方では周囲に笑っていたとされています)。 逸話1:若い友人と詩のことから喧嘩となり、決闘に至ったが、平然と笑いながらプーシキンは彼が撃つのを待ち、弾はそれました。大声で笑いながら友人の身体を抱いて、手を握りました。侮辱されたと思った友はしきりに撃てというが、「僕のピストルはね、雪が詰まっちまったんだ」といって、笑いながら撃たなかったと言われます。 逸話2:南ロシア・キシニェフの事。ある参謀将校(『人間の死にかた』の逸話を原文ママ)とバカラ賭博のことで決闘に至りました。プーシキンはピストルの代わりに一袋の桜桃を持って立っていました。相手が狙っている間、終始桜桃を頬張り続け、弾が外れると、「どうだ、得心がいったか?」と言い、笑いながら立ったままだったそうです。 逸話3:有名なピストルの名手(『人間の死にかた』原文ママ)の軍人との決闘話。吹雪の中、夜会でも行くような気持ちで行ったプーシキンでしたが、この時は、双方とも2発撃ちました。しかし、互いに2発とも外れたとされ、介添に促されて中止になりました。水のような彼の冷静さは常に友人達を驚かせたのです。 なお、ロシア作家については、ロシアNOWが「ロシア作家の5つの決闘」という特集記事を組んでおり、その筆頭にプーシキンvsダンデスの決闘が掲載しています。 アレクサンドル・プーシキンを描いたグラフィティ= V. Vizu/wikipedia.org撮影 出典:ロシアNOW ◆プーシキンが偉大である10の理由 ロシアNO さらに、ロシアNOWに、プーシキンが偉大である10の理由 という論考があります。 以下にその10の理由の見出しを紹介します。これはサンクトペテルブルグやモスクワを歩くと実感します。プーシキンはロシア国民に絶大な人気があるのです! 青山が思うに、それは①文学能力の高さ、②絶大な勇気、③比類ない愛情の持ち主、④話題性それでいて⑤ユーモアがあるからでしょう。、
作品 南ロシアにいた時期にはバイロンの影響を受け、「コーカサスの虜」などの詩を作っています。プスコフに移された時期からはシェイクスピアの研究を行い、ボリス・ゴドゥノフなどに影響が見て取れます。 ・ルスラーンとリュドミーラ(詩、1820年) ・コーカサスの虜(ロシア語版)(詩、1822年) ・バフチサライの泉(詩、1824年) ・シベリアへ送る詩(1827年) - シベリアへ流された友人オドエーフスキイ公爵にあてた詩 ・ジプシー(ロシア語版、英語版)(詩、1827年) ・ポルタヴァ(英語版)(詩、1829年)- ポルタヴァの戦い 小悲劇(ロシア語版)(「けちな騎士(ロシア語版)」、「モーツァルトとサリエリ(ロシア語版)」、 「石の客(ロシア語版)」、「黒死病の時代の饗宴(ロシア語版)」の4篇、1830年) ・ボリス・ゴドゥノフ(英語版)(戯曲、1831年) ・ベールキン物語(ロシア語版、英語版)(短編集、散文、1831年) ・その一発(ロシア語版、フランス語版) ・吹雪(ロシア語版、英語版) ・葬儀屋(ロシア語版、フランス語版) ・駅長(ロシア語版、フランス語版) ・百姓令嬢(ロシア語版、フランス語版) ・サルタン王の物語(ロシア語版、英語版)(1831年) ・金の鶏の物語(ロシア語版、英語版)(1834年) ・漁夫と魚の物語(ロシア語版、英語版)(1835年) ・エヴゲーニイ・オネーギン(韻文小説、1825年 - 1832年) ・青銅の騎士(詩、1833年) ・スペードの女王(1833年) ・プガチョーフ叛乱史(ロシア語版)(散文、1834年) ・大尉の娘(散文、1836年) ・ピョートル大帝のエチオピア人(ロシア語版、英語版)(1837年)- 主人公イブラヒムの モデルは、祖父アブラム・ガンニバル。 ・エジプトの夜 (1837年) 関連作品 オペラ ・プーシキンの作品の幾つかは、ロシア・ソ連の作曲家たちによってオペラ化されています。 グリンカ(ロシアの作曲家) ・『ルスランとリュドミラ』(1842年) ・ダルゴムイシスキー ・『石の客』(1872年) キュイ(ロシアの作曲家) ・『黒死病の時代の饗宴』(1900年) ムソルグスキー(ロシアの作曲家) ・『ボリス・ゴドゥノフ』(1874年) チャイコフスキー(ロシアの作曲家) ・『エヴゲーニイ・オネーギン』(1879年) ・『スペードの女王』(1890年) リムスキー=コルサコフ(ロシアの作曲家) ・『モーツァルトとサリエリ』(1898年) ・『皇帝サルタンの物語』(1900年) ・『金鶏』(1909年) ラフマニノフ(ロシアの作曲家) ・『けちな騎士』(1903年) コルンドルフ(ロシアの作曲家) ・『黒死病の時代の饗宴』(1972年) などがあります。 その他 『オネーギンの恋文』 - 『エヴゲーニイ・オネーギン』を映画化。レイフ・ファインズ主演。『ブロンズの天使』 - さいとうちほの漫画。プーシキンの妻ナターリアを主人公に、プーシキン、ダンテス、ナターリアの姉エカテリーナの四角関係を描く。コミックは小学館フラワーコミックスから。全7巻。 つづく |