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   厳寒のロシア2大都市短訪
 

ロシア文豪 ドフトエフスキー
Фёдор Михайлович Достоевский

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア
 E-wave Tokyo

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ロシアの文豪
 
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フョードル・ドストエフスキー
Фёдор Михайлович Достоевский
(1821年11月11日 - 1881年2月9日)


フョードル・ドストエフスキー(ヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ画)
Source:Wikimedia Creative Commons

Source: Wikipedia
 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年11月11日 - 1881年2月9日)は、ロシアの小説家・思想家です。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪です。

 その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされています。実存主義の先駆者と評されることもあります。

生涯

 モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らします。17歳の時にサンクトペテルブルク陸軍中央工兵学校に入学。

 卒業後に勤務した工兵隊製図局が肌に合わず約1年で退職し作家を目指します。工兵学校生・作家時代を送ったサンクトペテルブルクは、物語の舞台として数々の作品に登場します。

 1846年、処女作『貧しき人々』を批評家のヴィッサリオン・ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たします。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ニコライ・ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名です。

 デビューこそ華々しかったのですが、続けて発表した『白夜』、『二重人格』は酷評をもって迎えられ、その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕されます。

 死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられ(この一連の特赦はすべて仕組まれたものでした)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役します。

 この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著し、他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えました。刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還します。

 この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化がありました。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まります。

 自身の賭博にのめりこむ性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われます。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場します。

 賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にしました。借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていました。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』、『賭博者』などは口述筆記という形をとっています。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となります。

 また、小説以外の著名作に『作家の日記』があります。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となりました。

 晩年に、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日、家族に看取られながら亡くなりました。

 次女リュボーフィ・ドストエフスカヤは作家。曾孫ドミトリー・ドストエフスキーはサンクトペテルブルクのドストエフスキー博物館に勤務しており、関東(早稲田大学、東京芸術劇場)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行っています。

 なお、ドストエフスキーは多くの女性たちと複雑な恋愛関係を持ちましたが、それは直接的にも間接的にも作家活動に影響を及ぼしました。最初の妻マリアは既婚であり、後の恋人ポリーナ・スースロワとの交際も屈折したものでした。2番目の妻であるアンナは家政をみるだけでなくドストエフスキーの速記役でもありましたが、彼女たちはただ伝記のなかに現れるばかりでなく、小説中の登場人物のモデルとも考えられています。

著作

 死去するまでに残した著作は全部で35篇で、短編も多く出している。

 1841年 『マリヤ・ステュアルト』、『ボリス・ゴドゥノフ』、
       『ユダヤ人ヤンケリ』(いずれも現存せず)
 1846年 『貧しき人びと』、『分身』、『プロハルチン氏』 
      (以下の二作品は現存せず)
      『剃り落とされた頬髯』、『廃止された役所の話』
 1847年 『九通の手紙にもられた小説』、『ペテルブルグ年代記』、
      『家主の妻』
 1848年 『他人の妻』、『弱い心』、『ポルズンコフ』、『世なれた男の話』、
      『嫉妬ぶかい夫』(のちに『他人の妻』と合わせて『他人の妻と
       ベッドの下の夫』と改題)
 1849年 『ネートチカ・ネズワーノワ』
 1857年 『小英雄』
 1859年 『伯父様の夢』、『ステパンチコヴォ村とその住人』
 1860年 『死の家の記録』
 1861年 『虐げられた人びと』、『ペテルブルグの夢―詩と散文』
 1862年 『いまわしい話』
 1863年 『冬に記す夏の印象』ヨーロッパ滞在経験が主となっている。
 1864年 『地下室の手記』
 1865年 『鰐』((未完)
 1866年 『罪と罰』、『賭博者』
 1868年 『白痴』
 1869年 『大いなる罪人の生涯』(創作ノート)
 1870年 『永遠の夫』(
 1871年 『悪霊』
 1873年 『ボボーク』
 1875年 『未成年』
 1876年 『キリストのもみの木祭りに行った男の子』、『百姓マレイ』、
       『百歳の老婆』、『やさしい女』
 1877年 『おかしな人間の夢』
 1880年 『カラマーゾフの兄弟』

 なお、一般に『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』が、ドストエフスキーの5大作品と呼ばれています。ドストエフスキー作品の多くは、革命的思想を宿したものが多かったため、1924年から1953年までのスターリン体制下では「貧しき人々」以外の殆どの著作は発禁処分を受けていました。1956年のスターリン批判後に解禁再刊されました。

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