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  厳寒のロシア2大都市短訪
 

ロシア文豪 チェーホフ

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
 Антон Павлович Чехов
(1860年1月29日 - 1904年7月15日)


アントン・チェーホフ肖像
Source:Wikimedia Creative Commons

 Source: Wikipedia  アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860年1月29日 - 1904年7月15日)は、ロシアを代表する劇作家であり、短編小説家です。

生涯

 アントン・チェーホフは、父パーヴェル・エゴーロヴィチ・チェーホフと、母エヴゲーニヤ・ヤーコヴレヴナ・チェーホワの3男として生まれました。兄にアレクサンドル、ニコライ、弟にイヴァン、ミハイル、妹にマリヤがいまする。

 父方の祖父エゴールは農奴でしたが、領主に身代金を支払って一家の自由を獲得しました。父パーヴェルはタガンログで雑貨店を営んでいました。

 1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワに移住しました。しかしアントンだけがタガンログに残ってタガンログ古典科中学で勉学を続けました。この頃から詩や戯曲などを書いていたといわれており、作品名こそ伝えられてはいるが、作品そのものは現存していません。
 下はタガンログ市の位置です。ウクライナ東部に近いロシアにあります。


Source:グーグルマップ

 1879年に中学を卒業してモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学しました。アントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームを用いて雑誌にユーモア短編を寄稿するようになります。学業と作家活動を兼ねる多忙な日々を送り、アントンの友人が家を訪れると、父であるパーヴェルが「いまアントンは忙しいから」と来訪を断ることも多々あったといいます。

 1884年には医学部を卒業し、医師としての資格を得、また実際に医師として診察などを行うようになりました。こういったエピソードが伝えるとおり早熟な男子であり、母エヴゲーニヤや妹マリヤは「アントンが泣いたことは見たことが無い」と回想しています。

 作家として駆け出しの頃のチェーホフがユーモア短編を主に書いていたことはよく知られていますが、それは生活費を得るためという現実的な要請によるものでした。いわゆる「本格的な」作家への転機となったのは1886年に老作家、ドミートリイ・グリゴローヴィチから激励と忠告を受けたことだったといわれています。

 グリゴローヴィチはチェーホフの文筆家としての才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産はせっかくの才能を浪費するものだと警告しました。これを機にチェーホフは文学的な作品の創作に真摯に取り組むようになり、「幸福」、「芦笛」、「曠野」、「ともしび」などの優れた作品が生まれたとみることもできます。

 1887年に書かれた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は翌1888年の初演の評判こそよくなかったものの、1889年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場での再演[1]は好評を博しました。

 チェーホフは文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン」と呼びさえしました。当時の書簡には、ペテルブルクの道を歩くだけで花束を投げ込まれ、女性たちに囲まれたことが記されています。この頃に書かれた「退屈な話」(1889年)は、人生の意味を見失った老教授の不安と懐疑に苛まれたわびしい心情を描いた作品ですが、レフ・トルストイの短編『イワン・イリイチの死』を下敷きにしたことをたびたび指摘されるように、当時のチェーホフがレフ・トルストイの思想に傾倒していたことが知られています。

 1890年の4月から12月にかけて、チェーホフは当時流刑地として使用されていたサハリン島へ「突然」でかけ、過酷な囚人たちの生活をや環境をつぶさに観察し記録を残しました。この時の見聞は旅行記『サハリン島』としてまとめられて出版されており、サハリン旅行を作家チェーホフの転機とみなす指摘は少なくありません。

 翌1891年には新聞社を経営していたアレクセイ・スヴォーリンとともに西ヨーロッパを訪れています。スヴォーリンはチェーホフの作品をいくつも出版していた人物であり、2人は長く親密な友人関係を築いていました。しかしドレフュス事件を受けてアルフレド・ドレフュスを擁護したチェーホフはスヴォーリンと対立し、両者の関係は決裂するに至ります。

 1892年にメリホヴォに移り住み、ここで1895年の秋に長編戯曲『かもめ』を執筆しました。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演されましたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わりました、と長年いわれてきましたが、最近の研究では、むしろ成功をおさめた部類なのではないかともいわれています。

 2年後の1898年にはモスクワ芸術座によって再演されて大きな成功を収め、チェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなりました。モスクワ芸術座はこの成功を記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用しています。

 この1898年にチェーホフはヤルタに家を建て、翌1899年に同地に移り住みました。ここで短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆しています。またこの1899年にはモスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん』が初演され、1901年には同じくモスクワ芸術座で『三人姉妹』が初演されました。この時マーシャ役を演じた女優、オリガ・クニッペルと同年5月に結婚しました。

 1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演されました。同年6月に結核の治療のためドイツのバーデンワイラーに転地療養しましたが、7月2日に同地で亡くなっています。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられます。現在はノヴォデヴィチ墓地に葬られています。


「ロシアNOW」の チェーホフ特集記事
  
 ・アントン・チェーホフの10枚の写真と引用句
  ロシアNOW

 ・人生の大学: 6人の有名なロシア人学生と教授  ロシアNOW

 ・サハリンからモスクワまで  ロシアNOW

 ・三人姉妹  ロシアNOW

 ・まるごと“買い取られた”チェーホフ  ロシアNOW

 ・世界五百人超でチェーホフ読演会  ロシアNOW

 ・作家チェーホフが『桜の園』を完成  ロシアNOW



作品

戯曲


 ・プラトーノフ(1881年) - 一幕
 ・タバコの害について(1886年、1902年)
 ・イワーノフ(1887年) - 四幕
 ・熊 (1888年) - 一幕
 ・結婚申し込み(1888年 -1889年) - 一幕
 ・森の精(1889年) - 四幕
 ・かもめ(1896年)
 ・ワーニャ伯父さん(1899年-1900年) - 『森の精』の改作
 ・三人姉妹(1901年)
・ 桜の園(1904年)

ノンフィクション

 ・サハリン島(1895年)
 ・原卓也訳 「サハリン島」 中央公論新社(新書判)、2009年
 ・松下裕訳 「チェーホフ全集 12 シベリアの旅・サハリン島」 ちくま文庫、1994年、復刊2009年

主な短編小説

 ・かき(1884年)
 ・カメレオン(1884年)
 ・曠野(1888年)
 ・ともしび(1888年)
 ・ねむい(1888年)
 ・退屈な話(1889年)
 ・グーセフ(1890年)
 ・決闘(ロシア語版、英語版)[7](1891年)
 ・妻(1892年)- この作品にヒントを得て制作されたトルコ映画『雪の轍』
 ・六号室(1892年)
 ・恐怖(1892年)
 ・黒衣の僧(1894年)
 ・ロスチャイルドのヴァイオリン(1894年)
 ・学生(1894年)
 ・文学教師(1894年)
 ・三年(1895年)
 ・アリアドナ(1895年)
 ・殺人(1895年)
 ・中二階のある家(1896年)
 ・わが生活(1896年)
 ・百姓ども(1897年)
 ・荷馬車で(1897年)
 ・箱にはいった男、すぐり、恋について(1898年) - 三部作
 ・イオーヌィチ(1898年)
 ・往診中の出来事(1898年)
 ・新しい別荘(1898年)
 ・役目がら(1898年)
 ・かわいい女(1899年)
 ・犬を連れた奥さん(1899年)
 ・クリスマス週間に(1899年)
 ・谷間(1899年)
 ・僧正(1902年) 
 ・いいなずけ(1903年)


つづく