厳寒のロシア2大都市短訪 ロシア文豪 ゴーゴリ 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 掲載月日:2017年3月31日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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ロシア短訪・総目次に戻る ◆ロシアの文豪 19世紀はロシア文学の黄金時代 プーシキン 写真ギャラリー ゴーゴリ 写真ギャラリー ツルゲーネフ 写真ギャラリー ドフトエフスキー 写真ギャラリー ト ルストイ 写真ギャラリー チェーホフ 写真ギャラリー ◆ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ Николай Васильевич Гоголь リ( 1809年4月1日 - 1852年3月4日) ニコライ・ゴーゴリの肖像(F.A.モレル筆・1841年) Source:Wikimedia Creative Commons
1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受けます。1821年、ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意としていました。 卒業後、1828年にサンクトペテルブルクに移り、長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』をV・アロフなる筆名で自費出版しますが、酷評され、失望のあまり国外へ逃亡します。同年、ペテルブルクに舞い戻り、俳優を志すが失敗、かろうじて下級官吏の職を得ます。 この時期の、薄給に喘ぐ貧寒な生活の経験は、都市の下層民や小役人や俗物たちを描くのちの「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に活かされることになります。 1830年、『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を匿名で発表、不遇のうちにも詩人ジュコーフスキーや、ペテルブルク大学総長で詩人・批評家のピョートル・プレトニョフの知遇を得ます。1831年には愛国女学院に職を得て生活も安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介でアレクサンドル・プーシキンと会います。 プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持ちます。同年9月、当時流行のウクライナのフォークロアに取材した『ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部1832年)を出版し、一躍人気作家となります。 1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教えます。その後、ウクライナ物を集めた『ミルゴロドやペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説で文名はいよいよ高まります。 1836年の戯曲『検察官』によってその名は広く一般に知られるところとなりますが、その皮肉な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発ちました。途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受けます(1837年)。 これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになります。 ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツとイタリアで過ごしました。その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったと言われています。 1839年に恋人の突然の死を経験しますが、その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多いようです。『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことです。『死せる魂』第一部は1842年に刊行されました。 ゴーゴリにとって、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第二部・第三部において主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる筈でした。しかし、執筆は遅々として進まず、1845年、苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じます。 1847年、『友人との往復書簡選』を出版。その頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とにより、ベリンスキーをはじめそれまでゴーゴリを高く評価してきた多くの支持者を失います。 1848年、次第に信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレムへ巡礼に旅立ちます。エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部をふたたび焼いてしまいます。彼がモスクワで歿したのはその10日後、1852年3月4日のことでした。『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されています。 ◆ゴーゴリの主な作品 ・外套・鼻 ゴーゴリ ・死せる魂 ・結婚 ・検察官 ・外套 ・タラス・ブーリバ ・魅せられた旅人
つづく |