エントランスへはここをクリック          総目次に戻る

厳寒のロシア2大都市短訪
 

ロシア文豪 トルストイ

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
ロシア短訪・総目次に戻る

ロシアの文豪
  19世紀はロシア文学の黄金時代 
  プーシキン    写真ギャラリー    ゴーゴリ       写真ギャラリー
  ツルゲーネフ   写真ギャラリー    ドフトエフスキー  写真ギャラリー 
  ト ルストイ     写真ギャラリー   チェーホフ      写真ギャラリー


   

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
Лев Николаевич Толстой


レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ
Лев Николаевич Толстой
(1828年9月9日- 1910年11月20日)
Source:Wikimedia Creative Commons

 Source: Wikipedia  レフ・トルストイ(1828年9月9日 - 1910年11月20日)は、帝政ロシアの小説家、思想家で、フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並び19世紀ロシア文学を代表する文豪です。

 代表作に『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られています。

生涯

 トゥーラ郊外の豊かな自然に恵まれたヤースナヤ・ポリャーナで、伯爵家の四男として生まれます。祖先は父方も母方も歴代の皇帝に仕えた由緒ある貴族でした。富裕な家庭でしたが、1830年、2歳のとき母親を亡くし、1837年1月、9歳のときに父親の仕事の都合で旧首都であるモスクワへと転居しますが、同年6月に父親をなくし、祖母に引き取られたがその祖母も翌1838年に他界、父親の妹が後見人となったが彼女もしばらくして他界し、最終的にはカザンに住む叔母に引き取られ、1841年にはカザンへと転居しました。

 1844年にカザン大学東洋学科に入学しますが、舞踏会などの社交や遊興にふけって成績はふるわず、1845年には法学部に転部するもののここでも成績は伸び悩み、1847年にカザン大学を中退しました。このころルソーを耽読し、その影響は生涯続いています。

 1847年、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出し、農民の生活改善を目指しますが、農民に理解されず失敗。モスクワとペテルブルクで放蕩生活を送ったのち、1851年にコーカサスの砲兵旅団に志願して編入されます(コーカサス戦争)。

 この時の体験は後年『コサック』や『ハジ・ムラート』や『コーカサスの虜』などに反映されています。1852年、24歳でコーカサスにて執筆した『幼年時代』がネクラーソフの編集する雑誌『現代人』[5]に発表され、新進作家として注目を集めます。

 1853年のクリミア戦争では将校として従軍し、セヴァストポリで激戦の中に身をおきます。セヴァストポリの戦いでの体験は『セヴァストポリ物語』(1855)などに結実し、のちに非暴力主義を展開する素地ともなっています。

 退役後、イワン・ツルゲーネフらを擁するペテルブルクの文壇に温かく迎えられ、教育問題に関心を持つと1857年にヨーロッパ視察旅行を行ないました。ヴァイマルを訪れた際の逸話がトーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(1923年)に記されています。

 パリ滞在中には公開処刑を目撃し、物質文明に失望しています。帰国後、アレクサンドル2世による1861年の農奴解放令に先立って独自の農奴解放を試みますが、十分には成功しませんでした。

 1859年には領地に学校を設立、農民の子弟の教育にもあたります。強制を排し、自主性を重んずるのが教育方針でした。 翌1860年から1861年に、教育問題解決のため再び西欧に旅立ちます。この時、ヴィクトル・ユーゴーを訪問し、新作『レ・ミゼラブル』を激賞しています。

 他にもディケンズやツルゲーネフを訪問しました。1861年には農奴解放令に伴って設置された農事調停官に任命され、農民と地主との折衝にあたったものの、地主側からの反発を受けて翌1862年に依願退職します。同年、活動を危険視した官憲の妨害により学校は閉鎖のやむなきに至りますが、教育への情熱は生涯変わりませんでした。

 同年34歳で18歳の女性ソフィアと結婚し、これ以降地主としてヤースナヤ・ポリャーナに居を定めることになります。夫婦の間には9男3女が生まれた。幸福な結婚生活の中で世界文学史上に残る傑作が書かれました。

 トルストイはこれらの小説作品で、自らの生きた社会を現実感をもって描写するという、ギュスターヴ・クールベによって宣言された写実主義の手法を用いています。

 『コサック』(1863年)では、ロシア貴族とコサックの娘の恋愛を描きながら、コサックの生活を写実主義の手法によって描写しました。

 1863年7月18日にヴァルーエフ指令が公布されてウクライナ語での言論活動が禁じられた為、コサックが母語で文筆活動を行なえない皮肉な状況になりました。
 
 『戦争と平和』(1864-69)はナポレオン軍の侵入に抗して戦うロシアの人々(祖国戦争)を描いた歴史小説であり、500人を越える登場人物が写実主義の手法によってみな鮮やかに描き出されています。『戦争と平和』の主人公ピエール・ベズーホフにもトルストイ自身の思索が反映しています。『戦争と平和』で、トルストイはロシアの貴族社会のパノラマを描き出しました。

 『アンナ・カレーニナ』(1873-77)は当時の貴族社会を舞台に人妻アンナの不倫を中心に描く長編小説であり、『戦争と平和』に比べより調和に富み、構成も緊密です。『アンナ・カレーニナ』では、社会慣習の罠に陥った女性と哲学を好む富裕な地主の話を並行して描きますが、地主の描写には農奴とともに農場で働き、その生活の改善を図ったトルストイ自体の体験が反映しています。

 小説の主人公アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリアで、トルストイは1868年に出会っています。パンジーの花飾りや真珠のネックレスを描いた彼女を描写する一節は、トルストイ博物館に収蔵される肖像画と全く同じです。トルストイはまた社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行いました。援助資金を調達するために作品を書いたこともあります。一方『アンナ・カレーニナ』の執筆とほぼ並行して、初等教育の教科書作成にも力を注いでいます。

 世界的名声を得たトルストイでしたが、『アンナ・カレーニナ』を書き終える頃から人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなります。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになりました(トルストイ運動)。

 その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を否定しましたが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めませんでした。当時大きな権威をもっていたロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となりました。また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになります。そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みました。

 1891年から1892年にかけてのロシア飢饉では、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられましたが、政府側はトルストイを危険人物視し、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなりました。『神の国は汝らのうちにあり』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。『芸術とは何か』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のためのものだとして、その意義を否定しました。
 
 その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっています。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばでした。

 『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年に破門の宣告を受けましたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになりました。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招きましたが、現在もトルストイの破門は取り消されていません。

  一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られています。またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒でした。瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もあります。

 トルストイは作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになりました。 1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判しました。

 1909年と翌1910年にはガンディーと文通しています。 その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、夫人との長年の不和に悩んでいました。

 1910年、ついに家出を決行しますが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅で下車しました。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去しました。82歳でした。葬儀には1万人を超える参列者がありました。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬されました。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがあります。


主要作品

 ・幼年時代(英語版)  (1852年)
 ・少年時代(英語版)  (1854年)
 ・青春  (1856年)
 ・セヴァストポリ物語  (1855-56年)
 ・コサック  (1852-63年)
 ・幸せな家庭 (1859年)
 ・戦争と平和 (1864-69年)
 ・コーカサスの虜(1872年)
 ・アンナ・カレーニナ (1873-77年)
 ・教義神学研究  (1879-80年)
 ・懺悔 (1878-82年)
 ・イワンのばか (1885年)
 ・イワン・イリイチの死 (1886年)
 ・闇の力 (1886年)

 民話集
 ・小さい悪魔がパンきれのつぐないをした話
 ・人にはどれほどの土地がいるか
 ・鶏の卵ほどの穀物
 ・悔い改むる罪人
 ・クロイソスと運命
 ・光あるうち光の中を歩め  (1887年)
 ・人生論  (1889年)
 ・クロイツェル・ソナタ (1889年)
 ・パアテル・セルギウス(1890年)
 ・神の国は汝らのうちにあり (1891-93年)
 ・主人と下男 (1895年)
 ・芸術とは何か (1897-98年)
 ・復活  (1889-99年)
 ・生ける屍 (1900年)
 ・ハジ・ムラート( (1896-1904年)
 ・にせ利札 (1902-1904年)
 ・汝、悔い改めよ Bethink Yourselves[39] (1904年)
 ・インドへの手紙 (1908年)
 ・文読む月日 (1903-1910年)

「ロシアNOW」の トルストイ特集記事
  
 ・プーチン大統領がトルストイの生地を訪れる  ロシアNOW
 

 ・講演会「トルストイの直弟子といわれた日本人」  ロシアNOW

 ・英ドラマ「戦争と平和」の露宝飾品  ロシアNOW

 ・トルストイのクリミアでの1年  ロシアNOW

 ・「戦争と平和」の7つの真実  ロシアNOW

 ・ロシア人も知らなかった創作秘話 皆のトルストイ・ネット読演会  ロシアNOW

 ・トルストイの子孫たち  ロシアNOW

 ・トルストイとその子供たち  ロシアNOW

 ・本を書き、自転車に乗り、自撮りをしたトルストイ  ロシアNOW


ロシアへの影響 

 トルストイは存命中から人気作家であっただけでなく、ガルシン、チェーホフ、コロレンコ、ブーニン、クプリーンに影響を与えました。トルストイの影響は政治にも及んでいます。ロシアでの無政府主義の展開はトルストイの影響を大きく受けています。

 ピョートル・クロポトキン公爵は、ブリタニカ百科事典の「無政府主義」の項で、トルストイに触れ「トルストイは自分では無政府主義者だと名乗らなかったが……その立場は無政府主義的であった」と述べています。

 ソ連時代も共産党から公認され、その地位は揺るぎませんでした。 ウラジーミル・レーニンが愛読者であったことは知られています。トルストイは、革命後ソ連で活動したミハイル・ショーロホフ、アレクセイ・トルストイ、ボリス・パステルナークをはじめ多くの作家に影響を与えています。

 またアメリカで活躍したウラジミール・ナボコフはトルストイの特異な技法に注目しながら、ロシア作家中で最高の評価を与えています。宗教思想について本格的に論じられるようになるのはペレストロイカ以降です]。また、トルストイの教科書をもとにした教科書がペレストロイカ後に出版されています。

西欧への影響

 西欧においては1880年代半ばには大作家としての評価が定着しました。またロマン・ロラン、トーマス・マンらがトルストイの評伝を書き、マルタン・デュ・ガールが1937年ノーベル賞受賞時の演説でトルストイへの謝意を述べるなど、その影響は世界各国に及んでいます。

 一方トルストイの非暴力主義にはロマン・ロランやガンディーらが共鳴し、ガンディーはインドの独立運動でそれを実践しました。

 2002年にノルウェー・ブック・クラブが選定した「世界文学最高の100冊」に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『イワン・イリッチの死』が選ばれています。2007年刊行の『トップテン 作家が選ぶ愛読書』においては、現代英米作家125人の投票により、世界文学史上ベストテンの第1位を『アンナ・カレーニナ』が、第3位を『戦争と平和』が獲得しました。

日本への影響

 日本ではトルストイは最も尊敬された外国作家の一人です。文学者・宗教者・社会主義者など広範な人々が影響を受けています。初めて作品が翻訳されたのは1886年(明治19年)であり、森鴎外や幸田露伴といった一流作家も重訳ながら短編を翻訳ししました。

  徳富蘇峰・徳冨蘆花らはヤースナヤ・ポリャーナで直接面会しています。森鴎外や島崎藤村も作品に親しんでいます。日露戦争反対の論文『悔い改めよ』(1904・明治37)は、幸徳秋水、堺利彦らの『平民新聞』に掲載されて社会主義者を鼓舞し、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』執筆の契機となっています。

 『平民新聞』の関係者であった木下尚江や中里介山も以後トルストイと関わっていくことになります。 同じころ賀川豊彦は作品を読んで反戦思想を形成しつつありました。1914年(大正3年)から島村抱月によって悲恋物語に脚色された『復活』が松井須磨子主演で上演され、大評判となります。大正期にはトルストイの思想が白樺派の文学者を中心に大きな影響を及ぼしています。武者小路実篤の「新しき村」の運動や有島武郎の農地解放はその例です。宮沢賢治も文豪に関心を寄せた作家としてあげられます。また最初の全集も大正期に出版されています。


つづく