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世阿弥と日蓮の足跡をたどる佐渡の旅

両津湊と町並@

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2018年9月18日公開
独立系メディア Media E-wave Tokyo  
無断転載禁
佐渡現地視察総合目次     

  両津港  両津湊の金沢屋旅館  金沢屋展示物@  金沢屋展示物A
  加茂湖  加茂湖と両津湊  両津湊と町並@   両津湊と町並A
  両津湊の食堂・よろこんで    両津湊の鬼太鼓(オンデコ)


 ところで、「金沢屋旅館」など古い建築物が多数残る佐渡市の両津湊地区だが、その歴史を「佐渡市両津湊の町並」から見てみる。ちなみに「金沢屋旅館」は、ご主人によると130年の歴史があるいう。

佐渡市両津湊の町並」抜粋

 戦国期の終わり加茂湖と両津湾を境する礫州上に夷と湊ができた。夷は加茂湖北部の加茂歌代方面、湊は原黒・河崎方面からの移住者により成立した漁村であった。天正17年(1589)佐渡は上杉領となり、湊城内に陣屋が置かれた。慶長6年(1601)には幕府領となる。

 湊・夷は相川金銀山の隆盛により諸物資の移入港として廻船が往来、また、中世末頃から鱈・スケトウ鱈・いか漁が盛んに行われていた。寛文12年(1672)河村瑞軒により西廻り航路が開かれ、安永7年(1778)夷・湊は大坂廻米積出港に指定され、御米蔵ができ年貢米の大坂廻米が行われるようになり大いに繁栄した。

 慶応3年(1867)の新潟開港に伴い、翌明治元年夷港は新潟港の補助港として、外国船繋船場に指定されたため、巨費を投じて近代的な港に改修された。同時に夷港には新しい税関が設置され、地理的条件も加わり市街化が進み、小木に代わって佐渡の表玄関とし、漁港・商港として重要な位置を占めた。そして大正6年夷港は両津港と改称された。

 今回訪ねた両津湊町の北は、加茂湖と両津湾を繋ぐ小河川にかかる両津欄干橋で夷町と境し、西は加茂湖、東は両津湾に挟まれた一本町で、町屋はその両側に軒を連ねる。町の成立は江戸初期とみられるが、元禄7年(1694)の検地帳は残らないが、皆畑の地で、同年の当町の南の原黒村の検地帳には当町からの出作27人が見え、うち13人は茶畑を所有する。

 宝暦(1751〜64)頃の「佐州巡村記」には家数250、人数1,523とある。魚加工の四十物業が盛んであった。
 
 今、両津湊町は一本町の両側に、伝統的な様式の家屋が多く連なり、なかなか見応えある町並が約1km程続く。目立って特別大型の古い家屋は見られなかったが、明治期の建物も混じると思われる家屋が道の両側に連なっていた。


出典:「佐渡市両津湊の町並



出典:グーグルマップ


 下は私たちが両津湊で宿泊した元遊郭の旅館である。これまたなんともレトロだ。電柱や電線がなければ、江戸時代の宿場町の一角に見える。

 往事は、このベンガラ格子の奥に遊女たちが並び大勢の客で賑わったことだろう。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


つづく