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旧中山道、信州 宿場探訪

長久保宿(長和町)1

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

May 15, 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
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信州 宿場探訪 (中山道 長久保宿〜望月宿)
長久保宿 1 長久保宿 2 長安寺 笠取峠・芦田宿
茂田井宿 1 茂田井宿 2 茂田井宿 3 望月宿1
望月宿 2 望月氏・望月城跡 城光院 大伴神社
望月資料館 1 望月資料館 2 望月資料館 3


◆長久保宿(長和町)

 中山道の信州和田宿を後に、私達は和田宿よりひとつ江戸側の宿、長久保宿に向かいました。

 下の表は和田宿から追分宿までの一覧です。

 下側が京都側、上側が江戸側です。和田宿(28)の次、すなわち江戸側にある宿が、長野県長和町にある長久保宿(27 ながくぼしゅく)です。現在の町名では、和田宿、長久保宿ともに長野県長和町となります。

20.追分宿 信濃追分。北国脇往還(北国街道、善光寺街道)と結ぶ。
21.小田井宿 御代田町
22.岩村田宿 佐久市
23.塩名田宿
24.八幡宿
25.望月宿 芦田宿との間に間の宿・茂田井宿あり。
26.芦田宿 北佐久郡 立科町
27.長久保宿 小県郡 小県郡 長和町
28.和田宿

 長久保宿(ながくぼしゅく)は、上の表にあるように、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十七番目の宿場となります。 現在では長野県小県郡長和町の長久保にあります。

 長久保宿は、ともに難所であった和田峠(和田宿)と笠取峠(芦田宿)の間にあって、最盛期には旅籠が50軒ほどある比較的大きな宿場でした。

 下の歌川広重の浮世絵は、歌川広重「木曽街道六十九次・長久保」です。依田川のほとりにある松の木がアクセントになって浮世絵全体を引き立てています。


歌川広重「木曽街道六十九次・長久保」

 長久保宿では、宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり、下の地図にあるようにカギ型に曲がった珍しい形の宿場町となりました。

   下の地図では、赤い線が旧中山道、黄色の143号線が国道です。


カギ型に曲がった珍しい形の宿場町 長久保宿
出典:中山道六十九次 旧中山道地図 旧街道地図

 ところで、長久保の本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」でした。しかし、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついで、表記を変えたとされています。

 1859年、「宿方」から「代官所」へ宿名変更の願書が出されましたが、許可はされなかったそうです。

 そのため、1859年以降も公文書には「長窪宿」と記されていました。そして明治にようやく長久保が認められました。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、長久保宿の宿内家数は187軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は721人とそれなりの規模の宿場であったことが分かります。

 1859年(安政6年)、幕府が神奈川、長崎、函館の3港を開港し外国との交易が盛んになり通貨の需要が高まると、偽二分金が流布し、従来からの銭貨や明治政府により発行された太政官札の不足も手伝い、1869年(明治2年)-1870年(明治3年)に小額通貨が大量に不足し、経済に大混乱をもたらします。

 この際に、信濃諸藩では、「信濃全国通用銭札」を発行し、また主要な街道の宿場では宿場札を発行し対処しました。特に中山道では多く発行されましたが、長久保宿では明治2年10月まで使用された「縮限通貨」を六百二十四分、百分、四十八分、二十四分の4種類を発行し利用していました。

出典:Wikipedia

 下は国道142号線で和田から長久保に向かう途中の風景です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4

 下は国道142号線で和田から長久保に入るところありました「これより長久保宿」という標識です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-5-4

 下は長和町の「まるごと長和町」からの宿についての解説です。

◆長久保宿

 長久保宿(長窪宿)は、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、真田氏の配下で、本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに宿場が設けられました。

 しかし、大洪水により宿場が流失したため、寛永八年(1631)以降に現在地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」が形成され、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」が形成されていき、特異なL字型の町並みとなりました。

 寛政(1789)以降、四十軒前後の旅籠屋があり、中山道信濃二十六宿のなかでは、塩尻宿に次ぐ数を誇りました。

 その要因としては、宿場の前後に笠取峠、和田峠の難所を控えていたことや、大門道、大内道、北国街道へ接する交通の要衝に位置していたこと、温泉場の下諏訪宿に宿泊した場合、日程的に好都合だったことが上げられます。

 明治時代になっても宿場の賑わいは続きますが、幹線道路と鉄道が整備されると、しだいに中山道の交通量が減り、農村へと姿を変えていきました。

出典:まるごと長和町



つづく