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アンコール遺跡群現地調査報告


カンボジアの基礎知識

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年2月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載禁
アンコール遺跡全体目次

東南アジア巨大石造遺跡に魅せられて
シエムリアップに行く1    シエムリアップに行く2
視察・見学の方法と注意   遺跡・寺院の概要・場所
<参考>
カンボジア基礎知識  シェムリアップ基礎知識  博物館
クメール王朝について  創建順による遺跡・寺院
アンコール関連用語解説  クメール建築様式 
アプサラとデヴァタ  カンボジアの伝統工芸


 カンボジア王国、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部にある立憲君主制国家であり、ASEAN加盟国のひとつです。

 通貨はリエル、人口1,513万人、首都はプノンペンです。1970年にカンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生しました。

 南はタイランド湾に面し、西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接しています。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)です。国歌は『素晴らしき王国』です。

歴史


カンボジアの地図
Source:Wikimedia Commons

クメール朝時代

 9世紀初頭にクメール王朝が成立し、12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡が建造されました。

カンボジアの暗黒時代

 16世紀頃に、ポルトガルの商人やカトリック教会の宣教師が最初にカンボジアに到来した西洋人であったと考えられています。続いてスペイン人、オランダ人、17世紀半ばからフランス人が到来しました。

保護国時代

 1863年フランス帝国の保護国となり、1887年にフランス領インドシナの一部となりました。フランス保護下でも形式的に王国体制は存続し、1904年にシソワット王が、1927年にシソワット・モニヴォン王が即位しました。

 シソワット・モニヴォン王の下1940年から1941年にかけての間に、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、東京条約によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパーサック県、ピブーンソンクラーム県、シェムリアップ州(アンコール遺跡があります)、バンテイメンチェイ州、プレアタボン県などがタイ王国に割譲されました。

 1941年に即位したノロドム・シハヌーク王の治下で第二次世界大戦中に日本軍に占領されますが、明号作戦によってフランス領インドシナが解体された後、大戦末期の1945年3月13日に独立を宣言しました。

 1945年8月日本が敗北した後、フランス領に復帰しますが1949年にフランス連合の枠組みの中で独立を認められ、1953年に完全独立を達成しました。

独立と内戦

 仏印内東隣のベトナムは共産主義の北ベトナムと反共資本主義体制の南ベトナムに分かれて独立しました。北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は、ラオスおよびカンボジア領内の「ホーチミン・ルート」を経由して南ベトナムへのゲリラ攻撃を行います。

 これに対し米国は軍事介入を行いベトナム戦争勃発、1968年には米軍がカンボジア・ラオス領内のホーチミン・ルートへの空爆を開始します。

 1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク元首を追放し、クメール共和国を樹立しました。これに対して北ベトナムがカンボジアへの侵攻を開始すると、ロン・ノル政権は国内のベトナム系住民に対する迫害・虐殺を行います。

 また、北京に亡命したシハヌークは、共産主義勢力クメール・ルージュなどを含む反米・反ロンノル勢力の武力共闘を呼びかけ、カンプチア王国民族連合政府の樹立を宣言しカンボジア内戦が始まります。

 ロン・ノル政権下でも米軍による空爆は拡大し、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となりました。

 ベトナム戦争が北勝利となった1975年4月17日、カンボジアではクメール・ルージュのポル・ポト書記長がクメール共和国を打倒し、民主カンプチアを樹立しました。

 クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8カ月20日間のポル・ポト政権下の下、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人~200万人以上の死者が出ました。この死者数は、70年代前半の総人口700~800万人の13~29%に当たり、思想改造の下で虐殺が行われました。

 教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他政権に好ましからざる人々が捕らえられて強制収容所に送られ、強制収容所から出られたのはほんの一握りでした。なお、内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ています。

 1978年12月25日に中ソ対立の文脈の中でソ連派ベトナム社会主義共和国の正規軍とカンプチア救国民族統一戦線が、対立していた中国派の民主カンプチアに侵攻し、翌1979年1月、ポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立しました。

 1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンボジア連合政府を樹立しました。人民革命党と反ベトナム三派の対立が継続するも1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結されました。

制憲議会発足

 1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施されました。

 6月2日、国連安全保障理事会は、選挙が自由・公正に行われたと宣言し、選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をしました。さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議しました。9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位し、憲法は「複数政党制に立脚した自由な民主主義」を憲法原則の一つとしました。制憲議会は国民議会に移行しました。

 1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となりました。2009年12月18日、カンボジア特別法廷は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺罪でも訴追することを通知し、法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定しています。

 2013年カンボジア国民議会選挙では与党のカンボジア人民党が僅差でカンボジア救国党に勝利し、フン・セン首相の続投が決まりました。

政体・政治


カンボジアの地図
Source:Wikimedia Commons


首都プノンペンの王宮
Source:Wikimedia Commons
Copyrighted free use, リンクによる


 カンボジアの国家体制は国王を元首とする立憲君主制です。選挙君主制であり、ノロドム家(英語版)とシソワット家(英語版)のメンバーから、王室評議会が国王を選出します。

 王室評議会は、首相、両院の議長、両院の副議長(それぞれ2名ずつ)、上座部仏教の2つの宗派の代表(それぞれ1名ずつ)の合わせて9名からなり、秘密投票で国王を選出します。国王の地位は終身です。

 1993年にカンボジア王国が成立した際、初代国王にノロドム・シハヌークが選出され、2004年10月の国王退位を受けてシハヌークの実子であるノロドム・シハモニが選出されました。

立法


カンボジア国民議会議事堂
Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 立法府たる議会は両院制を採用しており、定数123議席から成る国民議会(下院)議員は直接選挙で選出され、定数61議席から成る元老院(上院)議員は間接選挙と国王からの任命によって選出されます。

 1998年7月末に総選挙が実施され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。人民党が第1党になりましたが、フンシンペック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあって、単独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権が成立しました。

 2003年7月に総選挙が実施され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンペック党26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立を巡り紆余曲折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足しました。

憲法

 1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党51議席(38.2%)、フンシンペック党58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)でした。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会に移行しました。

 カンボジア王国憲法には、内政不干渉、紛争の平和的解決、永世中立が明記されています。

法律

 カンボジアでは、クメール・ルージュ時代にほとんどの法律家(裁判官、検察官、弁護士)が殺害され、法律及びその資料も廃棄されました。カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状態から民法や民事訴訟法などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援を行っています。

 民事訴訟法は2007年7月から適用を開始しており、民法も2007年12月8日に公布され、2011年12月21日から適用が開始されました。

地方行政区

 カンボジアは、23の州(khett)と1つの特別市( reach theany)に分かれています。


カンボジアの地方行政区画
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軍事

 カンボジア王国軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成されます。

地理

 カンボジアの中心には湖と河川の複合体であるトンレサップ湖があり、その河川部分は国土の東部を縦貫する国際河川たる大河メコン川の支流となっており水運と漁業・農業を支えています。

 この平野部にカンボジア人口の三分の一が居住しています。トンレサップ湖の北辺にはクメール王朝の遺跡として世界的に有名なアンコール・ワットやアンコール・トムといったアンコール遺跡(1992年、世界遺産登録)が存在しています。

 国土の大部分は海抜100m以下ですが、東北部にアンナン山脈(ラオス・ベトナム国境となる)につながるモンドルキリ高原があり、北部には切り立ったダンレク山地(タイ東北部との国境付近)、プノンペン西方にカルダモン山脈(クロワーニュ山脈)が連なり、その山系に最高峰アオラル山(1813メートル)があります(以下の地形図を参照のこと)。


カンボジアの地形図
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる


地雷

 国内にはベトナム戦争中のカンボジア作戦や、それに続くベトナム・カンボジア戦争、カンボジア内戦の影響で多くの地雷と不発弾が埋まっています。危険地域の多くには危険標識が立てられているものの、カンボジアの子供達は母語であるクメール語の文字が読めないことが多く、誤って危険地帯に入ってしまうという問題がありました。

 そのため日本地雷処理を支援する会(JMAS)などの日本のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置するなどの活動をしています。

 現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になりました。しかしながら、地方部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていません。

経済


首都プノンペン
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カンボジアの農村では高床式住居が主流である。
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隣国とのGDP比較
Source:wikipedia

 国際通貨基金 (IMF) によると、2014年のカンボジアのGDPは約165億ドルです。一人当たりのGDPは1,080ドルであり、世界平均の10%に満たない水準にあります。

 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えています。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に位置づけられています。

 主要産業は農業、漁業、林業などの第一次産業です。近年は観光産業と縫製産業が成長し、最貧国ではあるものの外国からの投資も大きな伸びを示しています。主な鉱物資源として燐(未開発)、マンガン(未開発)、宝石があります。

 塩を4万トン生産します。経済成長率は、2004年に10%、2005年に13.4%、2006年には10.4%に達しました(カンボジア政府の統計)。

農業

 国土の約3割が農地として利用されており、その8~9割は水田です。次に多いのは「チャムカー(畑)」と呼ばれる畑地で、およそ農地の10~15%程度とみられています。さらに、「チャムカー・ルー(上の畑)」と呼ばれる畑があり、農地の10~15%程度を占めているとみられています。これら3種の農地のほかに、焼畑、ゴムの木のプランテーションがあります。

 食料作物と主要な工芸作物の作付面積を見ると米が圧倒的に多くなっています。トウモロコシ、キャッサバ、甘薯、野菜類、緑豆などの食料作物、落花生、大豆、胡麻、サトウキビ、タバコ、ジュートなどの工芸作物の作付面積は非常に狭いと言えます。

 カンボジアの国土に占める農地面積は21.6%に及び、人口の34%が農業に従事しています。生産年齢人口が人口の55.8%であることを考慮に入れると、カンボジアの主産業は農業です(以上、2002年時点)。しかしながら、労働生産性が低いため、農産物は国内需要を満たすに過ぎません。主要穀物では米(417万トン)の生産に特化しています。商品作物の生産では葉タバコと天然ゴム(4.6万トン)が目立ちます。

民族


カンボジアの民族分布(1972年)
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 クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族です。日系カンボジア人も少数ではあるが存在し、著名な人物として猫ひろしや後藤忠政が挙げられますが、その多くは起業や投資のためにカンボジア国籍を取得した元日本国籍者です。

言語

 カンボジア国内で最も話されている言語はクメール語(カンボジア語)です。公用語は1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっています。

 少数民族が話す言語にはチャム語などがあります。高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語がある程度通じますが、若者の間で最もポピュラーな外国語は英語となっています。

宗教

 上座部仏教が憲法で国教と定められていますが、信教の自由が保障されています。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒(カンボジアのイスラム教)です。

 クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられ、或いは虐殺されました。

教育


王立プノンペン大学
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 若年層の識字率は低くないが、45歳以上の識字率はクメール・ルージュ時代に教育が禁止された影響もあってか21.0%とかなり低い水準です。

 2004年の15歳以上で読み書きできる者は男性84.7%、女性64.1%。2005年の初等教育純就学率91.9%、中学校教育就学率男子57%、女子16%(1998-2002年)(ユニセフ『世界子供白書2005年』ほか)となっています。

 内戦の影響で学校の鐘として砲弾などの兵器が使われていており、2018年に政府は禁止を指示を出しました。また経済格差も首都やシェムリアップなどでは顕著それが教育にも影響。欧州人中国人の移民が増えていて英国式中国系学校などが複数存在します。カンボジアのエリートは子弟をそちらに通わせる事も増えていて、9歳で日本の大学生並みの英語力を持つ子供も1000人以上存在します。

・王立プノンペン大学
・カンボジア工業大学
・王立法律経済大学
・国立経営大学
・国立教育研究大学
・王立農業大学
・健康科学大学(カンボジア王国)
・カンボジア大学
・アンコール大学


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