アンコール遺跡群現地調査報告 クメール王朝について 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2019年2月24日公開 独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁 |
アンコール遺跡全体目次 東南アジア巨大石造遺跡に魅せられて シエムリアップに行く1 シエムリアップに行く2 視察・見学の方法と注意 遺跡・寺院の概要・場所 <参考> カンボジア基礎知識 シェムリアップ基礎知識 博物館 クメール王朝について 創建順による遺跡・寺院 アンコール関連用語解説 クメール建築様式 アプサラとデヴァタ カンボジアの伝統工芸 ◆クメール王朝について 主な出典はWikipedia です。 クメール王朝(アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国であり、現在のカンボジアのもととなった国です。これより前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国です。 歴史 802年頃、ジャヤーヴァルマン2世王がシャイレーンドラ朝から解放され、プノン・クーレン丘陵で即位しました。これがクメール王朝の始まりです。王都はハリハラーラヤです。 889年、ヤショヴァルマン1世がヤショダラプラに遷都しました。 928年から944年の期間、ジャヤーヴァルマン4世の時代に一時チョック・ガルギャーに遷都していました。 950年頃、スーリヤヴァルマン1世王がラヴォー王国を占領しました。1010年から約十年間、ハリプンチャイ王国がラヴォー王国に援軍を送り、ラヴォー王国を再びモン族勢力下に取り戻そうとクメール王朝と何度も争いましたが、マレー半島のナコーンシータンマラートのクメール人の王が船でクメール王朝に援軍を派遣したことによりハリプンチャイ王国軍は撤退しました。1023年にもクメール軍はハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃しました。 1113年、スーリヤヴァルマン2世が、西隣のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人、南隣のチャンパ王国や、東隣と戦い、王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及びました。彼は寺院建築に熱心で、アンコール遺跡のアンコール・ワット、トマノン、バンテアイ・サムレ、およびピマーイ遺跡などのヒンドゥー教寺院を建築しました。 1177年、チャンパ王国の大軍が王都ヤショダラプラを破壊しました。 1181年にはジャヤーヴァルマン7世がチャンパ王国に徹底抗戦して王都ヤショダラプラを奪還し、王として即位しました。 1190年にはチャンパ王国を降伏させました。12世紀から13世紀にかけて、クメール王朝はヴィジャヤ王朝ともしばしば戦争を行いました。一時はヴィジャヤ王朝を占領したこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ人兵士の浮彫が残されていることが知られています。 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世の時代に最盛期を迎え、現在のタイ東北部、ラオス、およびベトナムのそれぞれの一部をも領有していました。ジャヤーヴァルマン7世はそれまでの王が掲げていたヒンドゥー教ではなく、仏教を信仰し、アンコール・トム(ノーコー・トム)を始めとする一連の仏教寺院を建立しました。また、灌漑設備を建設して農業の振興をはかり、強大な勢力となりました。 クメール朝の位置 Source:Wikimedia Commons CC0, Link ジャヤーヴァルマン7世が死去して激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立しました。 1283年にクビライのモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢しました。宗教的には、13世紀に上座部仏教がインドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていました。 クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えて行きました。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っています。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直されました。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン3世が8世を殺害し、王位に就きました。 1351年にアユタヤ王朝が近隣のタイで建国されました。1353年、アンコール・トムへ留学していたファー・グムを支援し、ラーンサーン王国が建国されました。1378年、スコータイ王国がアユタヤ王朝に征服されました。 14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落しました。 創建順による遺跡・寺院につづく アンコール遺跡全体目次 |