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幕末の歴史を刻む上野の

2.上野戦争


青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda 
山形美智子 Mihicko Yamagata   鷹取 敦 Atsushi Takatori


December 19 2014
March 22 2015 拡充
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幕末の歴史を刻む上野の森 寛永寺 
@寛永寺の誕生 D徳川家と寛永寺 H大黒天 L尾形乾山
A上野戦争 E黒門と時鐘堂 I五重塔
B上野公園と寛永寺 F開山堂、清水観音堂 J家綱霊廟勅額門
C寛永寺 根本中堂 G不忍池辯天堂 K綱吉霊廟勅額門
歴代徳川将軍家家系  徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間


寛永寺の門にある徳川家の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13





上野戦争の概要と寛永寺の焼失

 幕末の慶応4年(1868)の彰義隊と官軍の上野戦争によって寛永寺が焼失することになります。下はその写真ですが、まさに一面が焼け野原となっています。

◆彰義隊(しょうぎたい)

 1868年(慶応4年)に江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で明治新政府軍に敗れ解散した。

 具体的には江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻りました。

 東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されましたが、徳川慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもりました。

 慶応4年5月15日(1868年7月4日)朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走しています。

 これがいわゆる上野戦争です。

 彰義隊士の遺体は上野山内に放置されましたが、南千住円通寺の住職らによって当地で荼毘に付され、その後ここが彼らの墓所となりました。

 平成2年、台東区の有形文化財に指定されています。


上野公園にある彰義隊の墓 Wikipedia

出典:上野恩賜公園彰義隊墓所に建つ台東区教育委員会説明板など


上野公園にある彰義隊の墓
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-22


上野公園にある彰義隊の墓の解説板
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-22

 下は焼け野原となった上野寛永寺跡です。以下に広大なものであったかが分かります。

◆上野戦争の詳細

 上野戦争は、その後の寛永寺について考えるとき極めて重要な出来事なので、以下に詳しく見てみましょう。出典はWikipediaです。

 旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかりましたが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立しました。


北白川宮能久親

経過

 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮をとりました。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断しました。

 大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路としました。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用しましたたが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたといいます。

 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突しました。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していたのです。

 下は黒門付近での上野戦争の様子を描いた図です。


上野戦争の図  

註 『タイトルは『本能寺合戦の図』となっていますが、実際には上野寛永寺の戦闘を描いている。袴姿の兵(おもに画面左側)が彰義隊、洋装の兵(おもに画面右側)が官軍。なお赤熊(しゃぐま。赤毛の長髪カツラ)は土佐藩兵を示しています。

 下も上野の黒門付近での上野戦争の図です。


赤熊の被り物をして戦う土佐藩の迅衝隊(上野合戦)

 新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もありましたが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行いました。


上野戦争で使用されたとされる佐賀藩のアームストロング砲  出典:Wikipedia

 彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射しました。

 西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却しますが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込みました。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走しました。

 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされています。

 下は上野戦争後の上野の寛永寺の跡です。まさに焼け野原、真ん中に時鐘堂があるのが分かります。


上野戦争跡     出典:Wikipedia

 下は寛永寺にあった大仏殿です。上野戦争による焼失は免れたものの、その後の「旧物打破」、わけても徳川将軍家に関係する文物は手当たり次第破壊されるなかで、この大仏殿も破壊されました。


寛永寺にあった大仏殿  出典:上野公園とその周辺

 以下は大仏殿が破壊された跡の大仏です。その後、光背がとれ大地震で首が落ちておだぶつとなったそうです。まるで中国の中華大革命を彷彿とさせる出来事です。


大仏殿なきあとの大仏  出典:上野公園とその周辺

 以下は寛永寺のホームページより

 寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災(りさい)しましたが、その都度復興されています。しかし関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。

 大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。

”大仏を 埋めて白し 花の雲”   子規


大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)
寛永寺のホームページ


寛永寺 清水観音堂 (トリップアドバイザー提供)


つづく