幕末の歴史を刻む上野の森 4.寛永寺伽藍 根本中堂 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 山形美智子 Mihicko Yamagata 鷹取 敦 Atsushi Takatori December 19 2014 Alternative Media E-wave Tokyo 無断転載禁
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寛永寺の門にある徳川家の紋章 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 2014年12月13日(土)、青山貞一、池田こみち、山形美智子、鷹取敦の4人は、12:30に上野駅の次の鶯谷駅南口で待ち合わせ、上野寛永寺、そして上野東照宮を現地視察した。下の写真は、寛永寺の入り口で撮影したものです。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 上野寛永寺を視察する場合、注意しなければならないことがあります。 それは、すでに述べましたが、寛永寺はもともと広大な上野公園一帯にあったために焼失を逃れた伽藍などの歴史的建造物が、公園内あちこちに散在していることです。 そのため、いわゆる上野寛永寺の根本中堂、時鐘堂それに上野東照宮、五重塔だけでなく、将軍家霊廟、輪王殿、旧本坊表門(黒門)、開山堂、清水観音堂、大黒天、不忍池弁財天、上野大仏など、広大な上野公園の敷地に散在していて、非常に位置が分かりにくいことがあります。 出発する前に、上記の位置を記入した以下の地図を持参することをお勧めします。 現在の上野恩賜公園の全図 出典:寛永寺 ◆寛永寺伽藍 根本中堂 下は、寛永寺根本中堂です。創建は1638(寛永15)年です。もともとの本堂は上野戦争で焼け野原になり、焼失したため、1879(明治12)年天海僧正ゆかりの地、埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移築して寛永寺根本中堂としています。 以下は,寛永寺による公式解説からです。 元禄十一年(1698)、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応四年(1868)彰義隊の戦争の際に焼失してしまいました。 現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたものです。 御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしております。 寛永寺 根本中堂 出典:Wikipdeia 以下は東京都台東区Webの解説です。
寛永寺本堂の解説板 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 |
◆寛永寺の創建と伽藍整備
下は往事の寛永寺です。広大な敷地に大久の伽藍が配置されていました。 東叡山寛永寺 下は江戸時代の地図です。真ん中の東叡山御本坊から左側にある水色の不忍池までの一帯が寛永寺の境内であったことが分かります。 江戸時代の東叡山御本坊、寛永寺 江戸時代、寛永寺(現在、東京都台東区上野)は増上寺(現在、東京都港区芝)、御殿山(現在、東京都品川区北品川の目黒川沿い)とともに、江戸の三大桜の名所でした。 下は二代目の歌川広重作による「東都上野花見」の浮世絵です。場所は寛永寺境内です。趣がよく伝わってくる広重の浮世絵です。 二代目の歌川広重作による「東都上野花見」の浮世絵 その後、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されましたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われました。 このようにして徐々に伽藍の整備が進みましたが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時です。 現在の本堂は冒頭に述べたように川越の喜多院本地堂を移築したものです。 寛永寺の石灯籠 出典:グーグルストリートビュー 下は寛永寺の歴史についての解説板を見る青山貞一(左)と池田こみち(右)です。 寛永寺の歴史についての解説板を見る青山貞一(左)と池田こみち(右) 撮影:鷹取敦 以下は、了翁禅師塔碑です。江戸時代前期の黄檗宗の僧の碑です。 了翁禅師塔碑 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 了翁禅師塔碑 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 つづく |